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「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」 [Archives]

最近の受験生は大変だ。
志望校の過去問も満足に解けやしねえ。

    

かつて俺も世話になった赤本とかの入試問題集に
国語の文章問題が掲載できなくなってきてる。
「著作権」を盾に訴えられるケースが増えたからだ。

  

訴えてるのはなだいなだとか平田オリザとか。
顔も貧相だが、やることもみみっちい。

殆どの受験生はコイツらの本なんて普段なら
読みてえとも思わねえだろう。その受験生に
文章の一部を読んでもらえるだけでも絶好の
プロモーションだし、創作活動にも何ら支障は
ないだけの収入は手にしてるハズだ。

にもかかわらずだ。
ここへ来てさらに金をフンだくろうとしやがる。
創作活動そっちのけで金儲けにご執心だ。

一体奴らは何を「生み出した」って言うんだ?
テメエの文章は全くのゼロから独創的な発想
だけで作り出された代物だとでも言うのか?

多かれ少なかれ、作家は過去に読んだ本や
他で仕入れたアイデアのエッセンスをパクって
文章をひねり出してる。自慢げに作り出したと
豪語するその文章も、語調や言い回しは確実に
先人の影響が滲み出る。

奴らの顔はスネ夫みてえなのに、言ってるコトは
何だかジャイアンみてえだ。

    

「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」

コレを言い出したら、全くもってキリがない。
例えば、もし中国が「中華文明が輩出した
漢字の1語1語に著作権を有する」なんて
言い出したら、なだいなだや平田オリザは
中国に素直に金を払うんだろうか?

結局の所、この違和感は「著作権」ってモノが
どこまで認められるのかって本質的な問題が
クレーゾーンのまま、目に見えてわかりやすい
権利ばかりが声高に主張されるコトに起因する。

だいたい世の中で「新たに生み出された」と
称するモノは、実は全て「サンプリング」だ。

テレビの仕事してると、特にそれを実感する。
たまに「俺の企画がパクられた」とか何とか
文句言ってる同業者がいるのだが、よくよく
聞いてみると、ホントに独創的だったなんて
アイデアは一度たりともあった試しがない。

どれもこれも採用されなかった別の企画書
で見たり、俺も考えたコトのある企画。
1人の人間のアイデアなんて所詮は出来合
のアイデアをいわば「順列組み合わせ」的に
掛け合わせてアレンジしただけ。

「自分が初めて考えた」なんて独りよがりに
思い込んでるだけなのだ。
じゃあ一体どこで線引きをすりゃいいのか?

まず大学の過去問に関して言えば、文章に
アンダーラインが1本でも引いてあったり、
一部が(  )にさえなってれば、それだけで
充分「オリジナル」と認めていいと俺は思う。

だって最近は音楽だって「サンプリング」が
増える一方じゃねーか。
TVドラマも映画もマンガの実写ばっか。
出版界のベストセラーも、例えばコレ。

声に出して読みたい日本語

声に出して読みたい日本語

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2001/09/12
  • メディア: 単行本

斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』
なんて昔の小説とかまんま書き写しただけ。
それで印税は斎藤孝に入るんだぜ?
それはそれでまぁクレバーだとは思うけど。

もちろん、物書きにも収入源は必要だから
著作権を全く認めないワケじゃない。
でもここまで過剰に現代人の著作権ばかり
保護するのは狂ってる。法的にも穴だらけで
あちこち矛盾ばかりのデタラメだ。

現実に時代の趨勢はお手軽なサンプリング
で作られた代物を支持してる。
そして実はそれは今も昔もさして変わらない。

現実に逆らうより、法制度そのものを変えて
サンプリングしやすくする方がよりナチュラル
で無理がないと言いたいのだ。

そもそも全ての芸術は時代と共に移ろう。
時代を超えて支持され続けるなんて代物は
ごくごく一握りで、大半は急激に陳腐化する。

問題は「刺身に1年の賞味期限を認める」
ようなもんで、急速に腐り果ててく著作物を
過剰に擁護し過ぎる点にあるんじゃねーか?

そこで! かつて大学の経済学部で会計学を
かじった元公認会計士志望崩れの俺的には
著作権に「減価償却」的な観念をより厳密に
適用すべきだと提言してみたい。

例えば、工場が製品を作る為に1000万円
をつぎ込んで機械を買ったとする。
でもその機械の価値は、時が経つにつれて
少しずつ減っていく。使ってくうちに傷んだり
能率が悪くなったりするからだ。

ところが帳簿上は、そのままだと大問題だ。
工場に金を貸している銀行は、万が一倒産
したら、工場の資産である機械を売り払って
金に換えて借金を取り返したいと考えてる。

ところが1000万円の価値があるとばっかり
思ってたその機械が実は古くなって100万円
の価値しかなかったとしたら、いざその工場
が倒産した時、大損を被るハメになる。

それだと余りにも不条理だってコトで、資産の
実態を帳簿に反映する為の会計処理方法が
「減価償却」なのだ。

減価償却には「定額法」と「定率法」がある。
例えば「定額法」なら、5年経つと1000万円
の機械の価値が10%=100万円になっちまう
として、毎年20%ずつ価値が目減りしていくと
計算する。

この場合だと1000万円×0.9×0.2=180万円。
毎年180万円ずつ価値が下がってく。

つまり当初1000万円の価値があった機械が…
購入1年後には…820万円
購入2年後には…640万円
購入3年後には…460万円
購入4年後には…280万円
5年目以降だと…100万円
となる。最終的に売りモノにもならなかったら
廃棄されて資産価値ゼロってコトになる。

著作権者やそれで利益を得てる業者にとっての
著作権は、「利益を生む資産」という意味では
上に説明した工場の機械と同じだ。
会計的にも同様の減価償却的処理がなされて
しかるべきだと思うのだ。

しかし日本の法律は基本的に資産としての
著作権の期限を「作者の死後50年間」だと
していて、「減価償却」的な陳腐化の計算も
されない。

しかもそれって、先人から受けついだ人類の
共有財産をちょっとばかしアレンジしただけ。

本来はある期間が過ぎれば、誰もが自由に
使って構わねえレベルの「先人のパクリ」
のクセして、やけに長い間、独占的に保護
され過ぎだと思うのは俺だけか?

それは「目に見えない利権」を守りたいだけ
のエゴイズムであって、欲の掻き過ぎだろ?
だいたい何もしちゃいねえ作者の子供や孫
までがヌクヌクとその恩恵にあずかる権利
が一体どこにあるって言うんだ?

実際、著作物の殆どはせいぜい10年すれば
陳腐化するのが実情。そこで考えるのだが
この際、思い切って著作権から得られる収入
も「減価償却」的処理を適用したらどーだ?

何と言うか、「俺が肺に吸い込んだ酸素は
死ぬまで俺のモノ」って、実はその酸素は
とっくに体外に排出されてるハズなのに、
それでもなお言い張ってるみてえな横暴さ
に虫酸が走るから、そうしてやりてえのだ。

芸能人の肖像権に関しても同様なのだが
過剰な権利擁護は声高なバカを利するだけ。

俺はそれを自覚してるが故に、声を大にして
叫びたい。全ての表現者は「法律を盾にした
ドロボー」であり、その自覚なく自意識ばかり
肥大してるバカどもは保護に値しないのだと。


ホントにあった『恐怖新聞』 [Archives]

夏の終わりに贈る「ホントにあった怖い話」。
これから書くコトはまさしく今、
俺の命を苛み続けている現実の恐怖である。

だが、それは読む者の命をも縮める危険がある。
それを心して読んでもらいたい。

真の恐怖とは作り話などではない。
ごくありきたりな日常の中にこそ存在する。
だから今回は普段余りしない身の回りの話…
俺の近況から報告しなければならない。

今、俺を苦しめているのは体内に巣食う悪魔。
何というか? 表現するのが難しいのだが
トーキングヘッズの「サイコキラー」的恐怖だ。

Talking Heads: 77

Talking Heads: 77

  • アーティスト: Talking Heads
  • 出版社/メーカー: Sire
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD

"I' m Tense And Nervous And I Can't Relax
Can't Sleep 'Cause My Beds On Fire
Don't Touch I'm A Real Live Wire"

今抱えてる座骨神経痛は飲み薬が効かない。
神経が痛みと痺れを発し続けている。
まさに俺の体はさながら高圧電線なのだ。

    

そんなワケで最近使ってるのは「ボルタレン・サポ」。
座薬をケツに突っこむ様は他人に見せられた
もんじゃないが、痛みを抑えるにはコレしかない…

  

背骨の中にはブっとい神経が通ってるのだが
背骨と背骨の間のクッションの役割を果たす
「椎間板」が背骨の内側にスベリ込んじまって
中の神経を圧迫してるらしいのだ…

おかげで俺の場合は第五腰椎から右足全体の
神経に痛みが走る。だから外出や仕事の時は
「モーラステープ」も欠かせない。

    

冷感のシップは血管を収縮させるから
血行が悪くなって症状が悪化する。

加えて俺は糖尿だから血液がうまく濾過されず
足の毛細血管の血の巡りも悪くなってるようだ…

    

主治医の指示でまだインシュリンは使ってない。
今の所は漢方薬の「インチンゴレイサン」と
「カミショーヨーサン」、それと「ビタミンE」で
新陳代謝を活性する方向だ。

ところが…体重には気をつけてきたのに
再検査で血液中のヘモグロビンA1cの値が悪化。
糖尿の合併症を引き起こす可能性のある危険値に
いつの間にか逆戻りしていた。

気が滅入るから、いきおい抗鬱剤の量も増える。

    

日本じゃ認可されてないので輸入代行業者から
「プロザック」を手に入れて感情をチューンナップ
せざるを得ない毎日…

何を隠そう。俺は肉体も精神もイカれちまってる
クスリ漬けのジャンキーなのだ。
健康とはまったくもって縁がない。
一体何が俺の体を蝕んでいったというのか?

そこはかとなく知ってる人間は多いと思うが
俺の本職はテレビの放送作家だ。
実はつい3月までは心霊写真や怪奇現象を
取り上げる番組を7年間担当していた。

    

事実、その番組の台本を書いてる度に
俺の体は幾度となく病気に見舞われ、
仕方なくその番組を降板した経緯もある。
もしやそれは怨念がもたらした祟りなのか?

だが、主治医はそうではないと言う。
原因は「仕事のストレス」だという。

決して今の仕事に不満はない。
先日は担当番組の1つが視聴率30%を超えた。
最強のお笑い番組を敵に回して調子が上向きの
番組もある。金銭的にも不自由しない。

だが実際、俺の体が今の仕事にストレスを
感じているからこそ悲鳴を上げているというのだ。

正直に告白しよう。例えて言うと俺は
「寿司職人をなりわいとするベジタリアン」だ。

毎日魚さばいてるから、魚なんか見たくもない。
ホントは野菜しか口にしたくない。
でも生きる為に生き物を殺し続ける。
この自己矛盾が「毒」と化して心身を蝕むのだ。

「インポになった産婦人科医」って言い換えた
方がわかりやすいか?何しろ俺は飽きっぽい。
最初は面白そうだと始めてみた仕事でさえも
裏側を見過ぎると幻滅しちまう。

誰でも多かれ少なかれ仕事にストレスを感じる
ものだとは思うが、基本的に心底楽しんでたら
体まで壊すことはないと思うのだ。

そう考えると、今まで『ジェネジャン!!』で
俺が喋ってきたコトの意味が初めて自分でも
理解できてきた。

しごく簡単な話だ。俺の発言は何から何まで
「テレビが作り出す世論へのアンチテーゼ」だ。

テレビってのは「通りのいいコト」しか言わない。
ニュースでもドキュメントでもバラエティでも
あらゆる情報を極度に単純化したステロタイプ
に当てハメるコトで共感を引き出す装置こそが
テレビだと言える。

    

『オッカムの剃刀』という言葉をご存じだろうか?
14世紀のスコラ哲学者ウィリアム・オッカムが
神学論争で多用した原理で
「現象を説明できる仮説が幾つかあるなら
 よりシンプルな方を選ぶべき」という原理だ。

論理学や科学の世界じゃ常識とされてる原理
なんだけど、俺がギョーカイ入って知ったのは
この原理には落とし穴があるってコトだ。

背景が複雑だったり、長々とした説明を要する
問題をテレビは決してやろうとしない。
それは「シンプルな方が正しい」からじゃなくて
単に「ウケがいい」からだ。デタラメでも単純で
通りやすい話がウケるコトが余りに多すぎるのだ。

それでも仕事ってコトで割り切ってやってきたが
その辺りの「テレビじゃ言えないこと」が本業で
蓄積し続けた結果としてのストレスが俺の発言
につながってたのだ。

恐らく問題は俺が「神経質」だってコトにある。
俺の体は「神経」からストレスを警告してるし
本業へのストレスも「神経過敏」だからだ。

このブログで俺がやってるコトも実を言うと
「漠然と感じる事を意識して言葉にする」
ってコトなのだが、それって「神経」を通じて
外界を感覚的に捉えるコトから始まる。

しかし体は「それを突き詰めるのはやめろ」
とシグナルを発している。
『オッカムの剃刀』の盲点を説明するのにも
骨が折れるように、物事を突き詰めてるうち
知らず知らず俺の神経は磨り減ってたのだ。

歪んでるのが俺であろうと社会であろうと
考えるコト自体が俺にとっての「毒」であり
俺はこの「毒」で自家中毒に陥っている。
そしてそれが俺の命を縮めている。

でもそれを止めるのは多分不可能だ。
なぜなら俺は、この「毒」の虜と化した
ジャンキーなのだから。

とどのつまり、全ての快楽は毒なのだが
俺の場合は「歪んだ思考」という快楽が
毒と化して肉体を歪ませてる。

そしてそれがもたらす俺の人生の末路も
何となく見えてきた所で、そろそろクスリ
もキレてきた…

最後に読者にも警告しておかねば…
要は「通りのいい考え」に則って生きてる方が
処世術的に肉体へのストレスは低いのだ。
歪んだ考えはやっぱりカラダに悪い。

しかもその痛みは『リング』さながら伝染する。

  

歪んだ思考に共感する人間は、多分俺のように
不健全で悲壮な末路を辿るのだ…
要はこんなブログ読んでるヤツも知らないうちに
少しずつ寿命が縮んでくってコト。

    

そう、このブログこそ読む者の世界観を歪ませ、
寿命を縮める『恐怖新聞』なのだから…


9月の「バカは死ね」 [Archives]

別に2週間怠けていたワケではない。
腰痛の悪化でデスクワークが全くできなかったのだ。
歩くのつらいから選挙も行かない。
元々行くつもりもなかったのだが。

それはさておき
今月の『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』
「自作自演の茶番のデパート」と題してフジテレビを取り上げたら
「めざまし調査隊」でホントに自作自演のヤラセが発覚したりして
単なる偶然か?それとも俺って意外とタイムリー?

詳しい内容は買って読みやがれ!


今週の「バカは死ね」/「スポーツジャーナリスト」と称する寄生虫 [Archives]

とどのつまり、脳ミソが体育会系なのだぁ!

  

駒大苫小牧高校が甲子園2年連続優勝を達成した
直後に発覚した野球部長の体罰問題

駒大苫小牧の隠蔽体質と高野連の煮え切らない
態度に批判が集中するのはまぁ妥当な所だけど
なぜ誰も本質的な問題に目を向けないんだろう?

事件発覚後、高野連にかかってきた電話の6割は
「頑張った選手達の優勝を取り消さないであげて」
みたいな同情の抗議だという。

「スポーツジャーナリスト」の二宮清純もテレビ
で似たようなコトをしゃべってた。

    

「冷静に考えればわかると思うんですが
 問題は学校にあるのであって、試合を戦った選手
 にはないんです」…みたいな。

だから「優勝取り消しはおかしい」という主張。
それがホントに「冷静に考えればわかる」結論かぁ?

今回の騒動を「スポーツジャーナリスト」として
冷静に考えれば、あらゆるスポーツの基本原則通り
「裁定は公平に行う」のが筋じゃねーのか?

それまでも高野連は一貫して〝連帯責任〟を盾に
不祥事のあった高校を有無を言わさず出場辞退に
追い込んで来た。今回の大会直前も明徳義塾高校
が出場辞退になってる。
論理的整合性から見れば優勝は取り消すべきだ。

それなのに「優勝したからいーじゃん」ってのは
選手の汗や涙と学校の不祥事を一緒くたにして
なし崩しにしちまってる。
ただの感情論どころか、ルールのネジ曲げだ。
少なくとも「ジャーナリスト」の意見じゃない。

どーにも俺は、この二宮清純に代表されるような
「スポーツジャーナリスト」って中途半端な奴らと
それが煽り立てる「脳ミソ体育会系バカ」的論調
に虫酸が走るのだ。

一言で言うと「スポーツマンはピュアで罪がない」
みたいなオメデタイ論調なのだが、実はコレって
「イビツな幻想」に過ぎないと思うのだ。

だいたい甲子園に出場する高校球児なんてのは
小学生の時からボールばっか追いかけて、ロクに
勉強もしてこなかったようなガキが大半だ。

強豪校は強豪校で、そんなガキを日本全国から
かき集めて越境入学させた上、授業そっちのけの
練習漬けで「野球ロボット」に作り上げる。

狙いは学校の知名度を上げることにあって
「教育者としての理念」なんかありゃしねえ。
「青少年の健全な育成」であるハズもない。

しかもこの異常な構図は子供や親の感情まで
イビツに歪ませちまう。今回の騒動も殴られた
部員がレギュラーだったら、多分父親も抗議は
しなかったハズだ。

    

何年か前に野村沙知代の少年野球チームでも
問題になったけど、体育会系では選手起用の
決め手が能力以前に監督のえり好みだったり
するコトがよくある。

親は自分の子供が出場できなかったから怒る。
そこには嫉妬が渦を巻いてる。そのストレスが
暴発してチクリに走ったってのが、一番妥当な
筋書きじゃねーのか?

にもかかわらずだ。

二宮清純はそんな高校球児の擁護にかまけて
高校野球そのものに透けて見えるイビツな構造
を「ジャーナリスト」として指摘しようという
姿勢はカケラも見られない。

朝日新聞が伝えたプロ野球

朝日新聞が伝えたプロ野球

  • 作者: 西村 欣也
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1999/05
  • メディア: 文庫


ついでに言うと朝日新聞の編集委員で
「グラウンドには人生がある」だとか
鼻につくスカしたコラムで「ストイックに
野球に打ち込むアスリートの美学」みてえ
なのを書き連ねて悦に入ってる
西村欣也なんてのもこの同類。

この手合いはイビツな状況で育成されてる
「野球ロボット」を「青春」「感動」「涙」
みてえな陳腐なレトリックで飾り立ててピュア
に描きたがる。その「スポーツ至上主義」的で
社会の現実を把握しているとは到底思えない
一人よがり感が見ててイタイ。

現実が全く判ってないホントのバカなのか?
或いは判ってて目を背ける偽善者なのか?

思えば、近鉄の球団売却に端を発する球界
再編問題でも奴らの対応は片手落ちだった。

    

当時「スポーツジャーナリスト」どもが執拗に
訴えたのは、涙ながらに会見する古田の姿
なんかに同情する感傷的意見ばかり。

「プロ野球は国民の娯楽」
「選手たちは日本国民が世界に誇る宝」
「罪もない選手たちを苦境に立たせるな」
とりあえず「ナベツネ」を悪役に仕立てて
わかりやすい記事が一丁上がりみたいな。

アマチュアの延長で巨額の報酬を得てる
プロ野球選手まで同レベルに論じやがるけど
そもそもボール追いかけるだけで何億も稼げる
今までの状況が異常だったのだ。

 

だいたい4億も5億も貰っといて、不満があると
事ある毎に球団にゴネたりするこんな手合いの
一体どこが「ストイック」で「ピュア」なんだ?

敢えて言うと、ガキの頃ロクに勉強もしなかった
彼らに大金を渡すのは逆に可哀想ってもんだ。

  

経済の実体とか知りもしねえから不動産投資で
失敗して借金こさえたり。親も親でバカだから
金の亡者だったりなんかして救いようがねえ。

その一方で「スポーツジャーナリスト」どもは
球団運営の危機という経済的問題に関しては
「新興のIT企業が参入するのは大歓迎」
「旧態依然とした球界に風穴を開ける」
とかライブドアや楽天を賞賛する事に終始した。

年間40億円と言われる経営赤字の削減策や
利益率をことさら気にするIT企業が短期間で
球団運営を投げ出す危険には「ジャーナリスト」
として全く言及しなかった。

その結果がどーだ?
今や巨人戦でさえテレビの視聴率は5%。
たとえ楽天の球場が満員になったところで
プロ野球人気そのものが衰退してるから
スポンサーの宣伝効果も薄れてる。

要するに遅かれ早かれ赤字球団は淘汰され
過剰な選手は不必要となる。
経済的側面を冷静に考えれば、充分に予測
できたハズの事態だし、それは需要と供給
のバランスが価格調整を通して修正される
事で実現される、極めてまっとうな帰結だ。

それなのに「スポーツジャーナリスト」は
本質的問題を先送りにしてスポーツ選手を
甘やかすような感情論ばかり煽り立てる。
一体何なんだろ、この奇妙なねじれ感は?

思うにコレって人気選手に取り入ってヨイショ
記事ばっか書いてきた挙げ句、実はテメエが
「ジャーナリスト」から単なる「タイコモチ」
に成り下がってるのさえ気づかずに思考停止
しちまってるってコトじゃねーのか?

しかも思考停止しちまってるもんだから
何となく世論に迎合していい加減なコトを
抜かしたりしやがる。

    

たとえばもし星野仙一が巨人の監督になる
なんてコトが実現したとしたら?

「球界に新風を吹き込むことを期待する」
なんてコトを奴らは言い出したりするのかな?
実際奴らは世論の流れに逆らうようなコトは
絶対口にしないから。

俺もそうなったら面白いと思う。
だって星野仙一って、試合でミスした選手を
殴りつける「鉄拳制裁」でおなじみの男だぜ?
星野が巨人の監督になれるなら駒大苫小牧
の部長の体罰問題はどーなっちまうんだろ?

「星野巨人」が実現する方向に話が進んだら
人気者や世論に媚を売って本質的矛盾には
ダンマリを決め込む「寄生虫」に成り下がった
自称「スポーツジャーナリスト」どもが一体
何を言い出すのか今から楽しみだ。

どの道、今の野球には魅力のカケラもねえし
楽しみと言えばその程度しかないのだ。


今週の「バカは死ね」/衆院選に見る「東大卒」 [Archives]

いつもの展開だと、次は孫正義が出馬したりして?

    

本には「政治なんか興味ない」とか書いてたのが一転、
今度はニッポン放送買収で敵に回った自民党本部にて
「無所属」での出馬宣言と来た。広島は地元でもない。
愛着なんかないのがミエミエなのも、近鉄買収騒動の
時とよく似てる。

権力者におだてられて舞い上がっちまった出馬の経緯も
場当たり的でまるで成り上がりの田舎者。何から何まで
デタラメなのだが、一方でこの「下世話なお騒がせ感」
の自己演出能力は見事と言う他ない。

勝っても負けても、ヤツは注目集めりゃそれでいーのだ。
そもそも政治なんて茶番の最たるものなんだし。

    

ちなみに最近は他にも湯浅卓とか「東大卒インパクト系」
が増えてきてるが、実はコレって、今までメディア戦略が
ダメダメだった「東大君」が積極的なメディアの使い方を
心得てきた「進化」の現れだ。

例えば少し前までメディアに出てくる「東大卒」というと…

「良識者っぽい」けど「特に面白みもない」感じで
「あんま印象ねーんだよなぁ」みたいな。

80年代以降の「マジメさより面白さ」的風潮の弊害で
俺の世代もそうだけど、東大生はことさらステロタイプ
的イメージを嫌がった。

「ガリ勉君じゃないんです」
「東大生も普通の人間なんです」
「意外とやわらかアタマなんですよ」
みたいな。思うに、その中途半端さが問題だったのだ。

だってステロタイプってのは利用した方が得。
結局、愚民どもはテメエが何一つ勉強しなかったコトを
タナアゲしつつ、時代的閉塞感をエリートのせいにして
貶めたがってる。裏返せばホントは立派な「東大卒」を
崇め奉りたいのだ。

要するに、今までの「東大卒タレント」の問題ってのは
エリートであるコトのリスクを担うのを極度に怖がって
「変わり者」だとされる危険を避けてきたコトにある。

奇人変人だと思われようが、デタラメだと思われようが
一般に期待された通りステロタイプを強烈に演じる方が
実はメディアコントロール的にはがぜん有利なのだ。

そもそも目立ちたいのに「万人誰からも愛されたい」
なんて考えてた時点でとんでもなく図々しい。
それが最近、ようやくわかってきたって感じだな。

ドラゴン桜 (1)

ドラゴン桜 (1)

  • 作者: 三田 紀房
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/10/23
  • メディア: コミック

だからこんなマンガが人気だったりもするワケで。

それゆえに、この「東大卒インパクト系」メソッドは
「不当に釣り上げられたブランドイメージの価格破壊」
であり、時代の変化に順応してきた証でもあるのだが
それでも未だに「邪道」とされている。

なぜなら、「東大卒」のブランドイメージを今まで通り
に使う「王道」的メソッドでも、まだまだバカは十二分
にだませるからだ。

愚民は「社会に風穴を開ける新風」みたいなモノを
望んでいながら、結果として支持するのは前と何ら
変わり映えのしない権威。

旧態依然とした保守的「東大卒」は、そのエリート的
特権を失いたくないのだ。俺が東大を出てよかったと
思うのは「インサイダー」としてそのデタラメさがよく
見えるってコトだ。

例えば今回の衆議院解散総選挙で言うと…

    

元『ミス東大』の財務官僚・片山さつき。
自民党の目玉候補とされる「改革派のマドンナ」だが
何の事はねえ、舛添要一の元カミさんじゃねーか。

俺が大学1年の時、舛添は東大助教授を辞めたのだが
女癖の悪さは当時学内で相当噂になってたぞ。
別れた原因は確か舛添の浮気。
ワイドショーレベルの愛憎ドロドロを引きずってる女が
「マドンナ」とか言われてるの見ると笑っちまう。

だいたい小泉は「郵政民営化」を筆頭に「小さな政府」を
標榜して官僚を目の敵にするようなスタンスを取りながら
結局頼ってるのは官僚じゃねーか。

そもそも政治家ってのはスタンドプレイに忙しくて
政策の実行から国会答弁まで何から何まで官僚頼み。
そんな奴らに改革など期待するコト自体愚の骨頂なのだ。

と、ここへ来て俺の「東大閥コネクション」から緊急速報が
もたらされた。

自民党が東京20区にこれまた財務官僚の木原誠二氏(35)を
公募から選出し、立候補擁立を決めたとのこと。

    

笑った。実はこの男、俺のクラスメートなのだ。

俺は「東大文II」入学だが、駒場で過ごす大学の1、2年は
「文I(法学部)」と「文II」がまとめてクラス分けされる。
クラスは第2外国語がフランス語の「L1&2-22組」だった。
そこで最初に知り合ったのが武蔵高出身の文Iの木原だ。

ヤツは当時から学内では有名人だった。
飲み会で同席したブッサイクな女に
「えっ! 木原君知ってるの? 紹介して!!」なんて言われたコトも。

何しろマンガの主人公みてえな男なのだ。
まずヤツは東大卒なら誰でも知ってる名門テニスサークル
で主将を努めてた。

このサークルは他校の学生は入部不可、東大生オンリーの
エスタブリッシュメント的存在たるサークルだ。
政財界に多くのエリートを輩出してるが、入部選考が厳格。
(女子は数が少なくて優遇されるから全員入れるけど)
いわば駒場東大の「フリーメーソン」的組織なのだ。

そんな団体がホントに存在するのかと訝る者もあるだろう。
だが事実、権力志向の強かった知り合いはこのサークルに
落ちたコトを「エリート街道からの脱落」だと嘆いていた。

駒場の学食じゃ、揃いのスタジャン着たこのサークルの
連中が「私たち選ばれた人間です」的オーラを発しながら
キャンパスを闊歩してた。もっともそのサークルの名称が
『トマト』というどーにも野暮ったいセンスなのはご愛嬌。
逆にそこがまた「The 東大」って感じなのだ。

そんな「超名門サークル」で木原はメキメキと頭角を現し
主将になった。何しろインターハイに出たとか出ないとか
テニスの腕前が抜群な上に、ルックスも爽やか。
カリスマ性の高い男なのだ。

だが、それだけではない。実はピアノの腕前も抜群で
パーティーでクラシックを華麗に引きこなしたりもする。

そんな木原については当時から「政界進出を狙ってる」
という噂を耳にしていたのだが、卒業後はその野心を
実現する為の超王道である大蔵省(現財務省)に入省。

しかも!イギリス留学に英国財務省勤務を経て
満を持して政界進出と来やがった。

英国大蔵省から見た日本

英国大蔵省から見た日本

  • 作者: 木原 誠二
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 新書

ちなみに調べたら本まで出してやがった。
東大にはバカも多いが、こーゆーヤツも現実いるのだ。

まあ個人的にはここまでエリート街道を驀進してきて
官僚としても「政治家のデタラメさ」が骨身に沁みて
わかってるハズの優秀な男が、なんでまた政治家を
目指すのか? と疑問に思ったりもしてしまうのだけど
それはさておき!

ここは1つ、俺も「東大閥」ってコトで、ヤツが議員に
なったあかつきにゃあ御利益にあずかりてえもんだ。
とりあえず頼みてえのは…

   

駐禁取られた時の「モミ消し」だ。
俺はコレが議員に与えられた最高の特権だと思うぞ。

そもそも行政が満足な駐車施設の増設という都市整備
を怠った挙げ句に罰金を取り立てて、しかもその罰金が
天下り利権団体「交通安全協会」を潤すのは矛盾だろ?

だから学閥の力で、俺が駐禁取られても救ってくれ!
なぜなら法の根本を理解する人間には、法を超越する
特権があって然るべきだと思うから!

別に国そのものを変えて欲しいなんて思ってねえし
そんなコト不可能なのはハナからわかってる。
だからこれぐらい役に立ってもらえるとありがてえなぁ。

俺は東京20区の有権者じゃねーから直接的な力には
なれねーけど、とりあえず個人的に「健闘は祈る」ぞ。

でも「国民の為に働きます」ってお題目でバカに頭下げて
ダルマに目ん玉入らなかったら、それもそれで笑えるな。
「やっぱテメエも俺と同程度のバカか」って確認できる。

    

俺的にはこれが「東大卒」の最大の特権なのだが?


8月の「バカは死ね」 [Archives]

そー言えば読者から反響も来てたので。

    

読者アンケートで「嫌いなコンテンツ」ベスト3の座をキープしている
『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』
(他の2つはマンガらしい)

今月のテーマはタレントやら三流ベンチャー企業家やら
憂国系のマンガ家やら「本業終わってる系語りたがりバカ」と
そのウスッペラーい哲学に心酔する「聞きたがりバカ」。

ちなみに記事の終盤部分が編集部で問題になったらしい。
笑った。果たしていつまで続くのか?

詳しい中味は「買って」読みやがれ!!


Reminder #2: 「奥山貴宏」という神話 [Archives]

腰痛でブログをかまけていた今日この頃。
そこへ来て、新たな「宿題」が出された。

でもひと夏かけても、この宿題は終わらない。
なぜなら「終えてはならない宿題」だからだ。

33歳ガン漂流ラスト・イグジット

33歳ガン漂流ラスト・イグジット

  • 作者: 奥山 貴宏
  • 出版社/メーカー: 牧野出版
  • 発売日: 2005/07
  • メディア: 単行本


彼はもうこの世にいないけど、それで終わりじゃないのだ。

奥山貴宏が「忘れるな」と語りかけている。

まぁ俺にできるのは出版記念の本の宣伝ぐらい。
しかもまた返事の来ない手紙になっちまうけど、とりあえず
彼のブログにトラックバックはしておこう。

彼については前にも何度か書いてるのだが
今だから言うと、正直、奥山氏の文章自体は好みじゃない。
とは言いつつ、彼の本はそんな俺までも、なぜか最後まで
一気に読ませてしまうパワーがある。
この「得体の知れないパワー」は一体何なんだろ?

『ジェネジャン!!』で話した時だったか?
それともブログだったか?彼はこう話してた。

    

「エピソード3は見ておきたい」

4ヶ月前にタイムリミットが来ちまったから
その夢は叶わなかったんだけど
彼がこの映画を心待ちにしていたのは
何となくわかる気がする。

もしかすると彼の本には
『スターウォーズ』で言うところの
「フォース」が秘められているのではないか?

…なんて思ったりしたのは
ちょうど最近、この本を読み終えたから。

     

アメリカの比較神話学者ジョセフ・キャンベルの
『千の顔をもつ英雄』だ。
(Joseph Campbell“The Hero With A Thousand Faces”1949)

ジョージ・ルーカスは『スターウォーズ』を作る時
この本からインスピレーションを得たという。

   

キャンベルはギリシア神話や聖書、仏教は勿論
アメリカ、インド、ポリネシアから日本の神話まで
世界各地に残る神話は全て、共通する普遍的テーマ
を物語っているという。

確かに『スターウォーズ』にはキャンベルの言う
神話の要素がそのまま組み込まれてる。

モノすごくかいつまんで言うと…
①「英雄」が「召命」を受けて「冒険」に旅立ち…
②それは誰も挑んだ事のない「命がけの冒険」で…
③時に「英雄」は悲劇的な死を迎えたりもするが…
④それが英雄の帰属する社会に恩恵をもたらす

…みたいな。ホントはもっと細かく分析されてて
『スターウォーズ』で言うと…

  

ダースベーダーとルークの親子関係が
キャンベルが言うところの「選ばれし英雄」の
「父親との葛藤=一体化」みたいなプロセス
だったりするのだが。

キリストでも仏陀でもルーク・スカイウォーカーでも
神話の中の「英雄」はそれまで誰も挑まなかった
「冒険的な人生」を全うし、社会に変革をもたらす。

実はそれは、姿形を変え、時代を超えて現れる
同一人物=「千の顔をもつ英雄」ではないのか?

それぞれの神話は幾千幾万の違ったストーリーに
見えるけど、訴えてる「真理」はただ1つ。

「冒険」によって精神的な成長を遂げることが
よりよい人生の道しるべなのだと教え諭すことで
人々の内面的成長を促し、心の支えとなるコトが
本来あるべき「神話」の役割ではなかったのか?
…ってのがキャンベルの主張なのだ。

奥山氏が『スターウォーズ』を好きだったってのも
こう説明されると、何となくわかる気がする。

「英雄」が未知なる力を授かり、命がけの「冒険」
に足を踏み入れ、栄光を掴むのだ。
ガンと闘う彼には励みになったに違いない。

さらに言うと「自分の死をネタにする」という
奥山氏の試みは、自分が直面している「死」を
何かと避けて済まそうとしがちな今の社会に
風穴を開けてやれ!的な、彼にとっての「冒険」
だったのか?みたいにも、俺にはダブって見えた。

多分、読者の多くが奥山氏に共感するのも
そんな彼の生き様から「神話の英雄」的モチーフを
無意識に感じ取るからだと思うのだ。

さらにここから、キャンベルは論を進める。

かつて人間にとって「精神的な成長」を促し、
「心の支え」として機能したハズの「神話」が
現代人にはもはや信じる対象とはなりえない。
単なる「作り話」になっちまってる。

現代人が方向性を見失い、不安を抱えてるのも
そんな「神話の喪失」が原因だと言うのだ。

確かに信じるモノがないってのは悲惨だ。
逆に信じるモノを持ってる人間は強い。

実を言うと俺も最近、それを実感させられる
光景に出くわした。

腰痛の治療で病院に通い始めたのだが
初診に行ってみたら待合室が大混雑だった。

俺は時間つぶしに『千の顔をもつ英雄』を
読んでたのだが、近くで順番を待ってる患者も
食い入るように本を読んでるのが気になった。

横目で覗くと、読んでたのはこんな感じの本。

 

見ると待合室の横は『丸山ワクチン』の処方
受付だった。周りはみんなガン患者。そりゃ真剣だ。

〝末期ガン患者の最後の望みの綱〟の
異名を取る『丸山ワクチン』だが、その効果
については賛否両論あって、厚生労働省の
認可が得られていないのも事実だ。

俺には本を読んでたその患者が、まるで
その効果を自分に信じ込ませようとしてる
かのようにも見えた。

一方で、横にいた別の患者も何かの資料
を一生懸命読んでる。覗いてみると…

 

輸血拒否でおなじみ『エホバの証人』こと
『ものみの塔』の会報だ。かなり引いた。

とは言いつつ、ワラにもすがりたいガン患者には
救いが必要なのも事実だ。未承認ワクチンでも
新興宗教でも、信じることで奇跡をもたらして
くれる「神話」が必要なのだ。

そう考えると、そもそも『丸山ワクチン』自体
ある意味「神話」なのかも知れない。

いわゆる「病は気から」の反対で
「ガンに効く」と信じることが患者の免疫力
を高めるプラシーボ効果をもたらしてるだけ
じゃねーか?とも思えてしまうのだ。

でも医学的メカニズム自体は問題じゃない。
ともかく信じることが人間を強くするのだから。

それで言うと、ふとこんな思いが頭をよぎる。

ガンと闘うんだったら奥山氏の本を読めば
効果があるんじゃねーのかな?

彼の本には読む者を力づける「フォース」がある。
事実、彼は医師の宣告より長く生きながらえた。
「特効薬」になると思うのだ。

そーなりゃ『スターウォーズ』なんか目じゃない。
まさにガン患者にとっての「現代の神話」だ。
『エピソード3』見れなくても充分オツリが来るぞ。

もっとも「神話」ってのは、多くの人々の心に強く
焼き付けられて、初めて成立するものだ。
その可能性については何とも言えない。
テレビ見て泣いてた奴だって、数ヶ月もすれば
きれいサッパリ忘れちまうのだから。

とは言え、そこは楽観的に彼が「現代の神話」に
なれるコトを「信じて」、この言葉を贈るとする。

    

“May The Force Be With You”
「フォース」が汝と共にあられますように。


「渋谷ではたらく社長」に送るMusical Baton [Archives]

   

『渋谷ではたらく社長のブログ』でおなじみのIT社長
藤田晋氏が奥菜恵との離婚を発表した。

今回の離婚に関しては好奇の目に晒されるとは思うが
急成長を続けるサイバーエージェントの経営に多忙な中
ブログという「インターネットのインフラ整備」にも
自らブロガーとなって取り組んできた姿勢は評価したい。

しかも離婚なんてシビアな状況をブログで発表するのは
相当な勇気が必要だったに違いない。
そしてこれが、ブログのさらなる普及にもつながるのだ。

直接面識はないが、ここは1つ、俺も同じブロガーとして
我が身をネタにしてブログ界を盛り上げる藤田社長の
大英断に敬意を表しつつ、エールを送ってみたい。

先日、当ブログの読者でブログ開設1周年を迎えたという
「切られお富!」さんから回ってきた“Musical Baton”
藤田社長に回してみたいのだ。

“Musical Baton”は音楽に関する4つの質問に答えて
誰かにバトンを回す企画だ。
一種のチェーンメールなのだが、特に害悪はないし、
ブログ間の交流にも役立つに違いないという観点から
ネタとして乗ってみる。例えば俺の場合…

Q1自分のPCの音楽ファイルの容量

183.83GB。2404アルバム、40225曲。

Q2今聴いてる曲

Piano Jazz: Costello/McPartlandに入ってる
“Almost Blue”と“My Funny Valentine”。

Q3最後に買ったCD

Diamonds from Sierra Leone [UK CD #2]

Diamonds from Sierra Leone [UK CD #2]

  • アーティスト: Kanye West
  • 出版社/メーカー: Universal International
  • 発売日: 2005/08/02
  • メディア: CD

Kanye Westの“Diamonds From Sierra Leone”

…みたいな感じで紹介していくのだが、最後に来て

Q4よく聴く、または特別な思い入れのある5曲

…って質問で、しばらく考えあぐねちまった。
数が多くて絞り切れずに困っていたのだ。

そんな中、藤田社長の離婚のニュースを聞いて
ある考えが閃いた。

思うに、楽しい時ってのはどんなクソみてえな曲
だってBGMとして成立してしまうのだ。
「音楽なんかいらない」と言っても過言ではない。
気分が暗くなるからこそ、音楽は必要だ。

そこで今回は俺の好きな曲の中でも
「恋愛や結婚という幻想」がテーマになってる5曲を
「渋谷ではたらく社長」に勝手に捧げてみる。

藤田社長にオススメするのは次の5曲。
これを聞いて、吹っ切れた気分になってもらおう。

①Todd Rundgren“Influenza”

With a Twist

With a Twist

  • アーティスト: Todd Rundgren
  • 出版社/メーカー: Emi
  • 発売日: 1997/10/20
  • メディア: CD

アルバム“The Ever Popular Tortured Artist Effect”
で発表された原曲はアレンジが余り好きではないのだが
このアルバムでセルフカバーされたボサノババージョンは
特に枯れた味わいでいい。

大抵の恋愛ってのは「インフルエンザ」みたいなもんだ。
終わって初めて、熱に浮かされてただけだと気づく。
今の藤田社長なら、きっと共感してくれるに違いない。

②The Persuaders“Thin Line Between Love And Hate”

Thin Line Between Love & Hate: Golden Classics

Thin Line Between Love & Hate: Golden Classics

  • アーティスト: The Persuaders
  • 出版社/メーカー: Collectables
  • 発売日: 1994/08/30
  • メディア: CD

「愛と憎しみを隔てる道はか細い…」ってゆーか
愛と憎しみってのは表裏の関係だ。

愛も憎しみに変われば、この歌にも歌われてる通り
“Sweetest Woman In The World
Could Be The Meanest Woman In The World”
「世界一イイ女も世界一イヤな女になりうる」のだ。

例えそれが人気女優だったとしても…ですよねえ?

③Outkast“Ms. Jackson”

Stankonia

Stankonia

  • アーティスト: OutKast
  • 出版社/メーカー: La Face
  • 発売日: 2000/10/31
  • メディア: CD

この曲で歌われてる“Ms. Jackson”ってのは
離婚したカミさんの母親。
「おたくの娘を悲しませるつもりじゃなかった」
って弁明が繰り広げられるラップだ。

録音したドラムの音を逆回転したらしきビートと
共に流れる「ウェディングマーチ」のフレーズが
失敗に終わった結婚を回想するかのように延々と
リピートされるのだが、中にこんな名言が…

“You Can Plan A Pretty Picnic
But You Can't Predict The Weather”

「楽しいピクニックは計画できるけど
 天気がどうなるかまでは予測できない」のだ。

④Was(Not Was)“Wedding Vows In Vegas”

What Up, Dog?

What Up, Dog?

  • アーティスト: Was (Not Was)
  • 出版社/メーカー: Chrysalis
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD

今はボブ・ディランとかを手がけるプロデューサーの
Don Was率いるこのグループがフランク・シナトラJr.
をゲストに迎えたこの曲は、旅行先のラスヴェガスで
電撃結婚に踏み切る刹那的なカップルの歌だ。

ヴェガス式の“インスタント・ウェディング”ってのは
20ドル追加するとポラロイド写真も撮ってくれて
さらにエクストラコストを払うと「ウソ泣き」する観客
までつけてくれるそうな。

ラスヴェガスと同じで、結婚式ってのは華やかだ。
でも「永遠の約束」は、カジノよりも勝算が低いのだ。
それでも誰もが「勝ち」を信じて賭けに出る。
失敗したからと言って責められる咎はない。

例えそれが、リスクとリターンの確率計算に長けた
企業家だったとしても…ですよねえ?

⑤Cake“Friend Is A Four Letter Word”

Fashion Nugget

Fashion Nugget

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Bmg/Volcano/Capricorn
  • 発売日: 1996/09/17
  • メディア: CD

“Friend”は6文字では…?ってのはヤボなツッコミ。
「お前の言う『友達』なんて、俺にとっちゃ
 クソッタレの4文字言葉にしか聞こえねえのさ」って曲。

“Friend Is A Four Letter Word
...End Is The Only Part Of The Word That I Heard”
「俺に聞こえたのは後半の“end”の部分だけ」
って歌詞がとてつもなく秀逸。

藤田社長のブログは面白いと評判だが、難を言うと
「妻は結婚相手として、パートナーとして
 本当に素晴らしい女性でした」
なんて紋切り型の口上がどーにもいただけない。

どうして離婚する奴って、この手の「偽の優しさ」を
相手にアピールしようとするんだろ?

誰がどう見てもズラなのに「ズラじゃないんです」
っていい張ってるみたいな虚しさがイヤなのだ。

この離婚騒動はサイバーエージェントの今後を
決める正念場にもなりかねない。
それを考えると「ダメージコントロール戦略」には
やっぱり「ネタ」にするのが一番じゃねーのか?

大体IT企業ってのは実体がよくわからねえから
株価は風評に大きく左右される。
思い切りネタにしてブチまけた方が市場の反応も
いいと思うのだ。

そんな思いを込めつつ、俺も「ネタ」として
このMusical Batonを藤田社長に送ってみる。

まあ返事は来ねえだろう。
俺的には、なかなかいい選曲だと思うのだが?


機械になりたい [Archives]

腰痛が再発した。もう、人間でいるのはウンザリだ。
鎮痛剤で痛みを抑え、横になって本を読むだけの今日この頃。

人間の脳を「自然が作り出したコンピューター」だと定義すると
今の俺にはマトモな思考などできるハズがない。

クスリでチューニングされ、苦痛を散らす有機体としての俺。
この感覚は果たしてホントに「俺自身の感覚」なのか?
所詮は化学反応によってもたらされた「幻想」ではないのか?

今の俺は「感覚」として脳に入力される外界からの情報
それ自体にバイアスがかかっていることになる。
この壊れた肉体に囚われている限り、思考には限界がある。

いっそ、こんな煩わしい肉体は捨てて「機械」になりたい…

  

こんな風に書くと、大抵の人間が思い描くのはこんなイメージ。
「機械の体で永遠の命は得られても…」みたいな。
でも、実はこのイメージって、発想力が貧困過ぎると思うのだ。

科学が格段に進歩して、人間のマインドがホントに自由自在に
機械に移植できるようになっている未来を想像してみる。

多分、その時は人間の脳が作り出す「心のメカニズム」なんて
モノは全て解明されてるハズだ。

もともと「痛み」や「悩み」ってのは肉体につきまとう。
もし人間が「肉体の呪縛」から解放されて、外界からの情報を
純粋に理論的に思考できるようになると、きっと今の人間には
思いもよらない新たな理性が得られるハズではないのか?

俺がなりたい「機械」ってのはそんな感じ。例えて言うと…

虚数

虚数

  • 作者: スタニスワフ レム
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 1998/02
  • メディア: 単行本

ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの『虚数』
(Stanislaw Lem“Wielkosc Urojona i Golem XIV”)
に登場する「GOLEM」みたいな人工知能だ。

しかし、それを説明する為には、またややこしい説明
を幾つかしなきゃならねえ。

  

レムはタルコフスキーの映画やソダーバーグが監督した
そのリメイク版『ソラリス』の原作者で知られる。

大学で医学を専攻する傍ら、哲学、数学、物理学、生物学
などあらゆるジャンルに精通した“知の巨人”であるレムは
SF小説にありがちなステレオタイプをことごとく破壊する。

例えば宇宙人が出てくるストーリーというと…
 ①地球人が宇宙人と闘って勝つ
 ②地球人が宇宙人と闘って負ける
 ③宇宙人と地球人が友好を結んで別の敵と戦う
の“3つの紋切り型”しかないのはおかしいとレムは言う。

それは「人間vs人間」の戦争の片方を単純に「宇宙人」に
置き換えた偏狭な“地球人的世界観”に過ぎない。
おそらく、宇宙のどこかに存在するであろう知的な存在は
「人知の想像を超えた方法」でコンタクトを取るハズだと
あらゆるジャンルの知識を駆使して独自の理論を展開する。

惑星ソラリス

惑星ソラリス

  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィー・シー
  • 発売日: 1998/09/25
  • メディア: DVD

例えば『ソラリス』で主人公の宇宙飛行士が遭遇する生命体は
「惑星全体を覆う海」=「液体状の生命体」だ。

液体なのに高度な計算能力があって、潮の満ち引きで惑星の
軌道を修正したり、接触した人間の脳を調べ上げて、主人公の
死んだはずの恋人に姿を変えてコンタクトを取って来たりする。

  

他にも、小説『捜査』は「死体が動き出す怪事件」が続発して
スコットランドヤードの刑事が翻弄される話。
しかもとんでもないオチだった。

一言で言うと「人知では理解不能な何か」と遭遇するコトで
人間は「絶望的無知」を突きつけられ、困惑する…みたいな
テーマを首尾一貫描いてきたのがレムって作家なのだ。

しかもそんな「人間と知的生命体のコンタクト」が不可解で
あるのと同様、作家としてのレムの「読者とのコンタクト」の
方法もまた、どんどん謎めいていった。

「SF小説の考え得るパターンは表現し尽くした」と宣言して
小説を書くのをやめ、“存在しない本”を書き始めたのだ。
その手始めがこの『完全な真空』

「小説」としてディティールを描くには無理があるアイデアを
「架空の小説の書評」として紹介する“メタフィクション”だ。
どちらかというと思想書に近い。

で、その延長上にある『虚数』は
「未来に必ずや出版されるであろう本の序文集」の体裁を取る。

大半の批評家は「序文集」って手法を面白がってるみたいだが
率直に言うと、手法としての完成度は『完全な真空』の方が上。
「序文」にしては冗長で、「書評」と何ら変わらないからだ。

ホントに凄いのは何かと言うと“未来に必ずや起こるであろう”
人工知能が誕生し、それが人間の知性を遙かに凌駕していく
プロセスを、徹底して理論的に導き出そうとする試みなのだ。

『虚数』に登場する究極の人工的知性「GOLEM」は
アメリカ国防総省が数百億ドルを投じて作ったコンピューターだ。
当初は米軍の軍事戦略シミュレーションの為に作られた。

この設定から予想される展開は大方こんなイメージだろう。

ターミネーター アルティメット・エディション

ターミネーター アルティメット・エディション

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2003/07/04
  • メディア: DVD

『ターミネーター』よろしくコンピューターが人間の抹殺を企む…
或いは『2001年宇宙の旅』のコンピューター「HAL」みたいな。
ところがレムはこのステロタイプを見事に裏切る。

あらゆるジャンルの知識をインプットされた究極の人工知能
「GOLEM」はある日、軍事戦略シミュレーションの結果
「最良の平和保障は全面的軍備撤廃である」と宣言して
米軍との協力を一方的に拒否してしまうのだ。

確かに『ターミネーター』みたいな人間の知性を遙かに凌駕
する人工知能が出現したとしたら、殺し合いを続ける人間ども
なんかと同レベルの結論に達するハズがない。

人類同士の愚かな争いは「存在論的問題とは比較にならぬ
つまらない問題」だと主張し、「軍事戦略家」ならぬ「哲学者」
になっちまうのだ。

ペンタゴンは「GOLEM」の解体を試みるが、結局世論の批判
などあってMIT(マサチューセッツ工科大学)に引き取られる。

ところが…そこで学者たちに講義を始めた「GOLEM」は
ここから思わぬ形で人間どもに「絶対的無知」を突きつける。

「GOLEM」が純粋に抽象的な論理や思考をいくら説明しても
「人間が石に話しかけても石ころは理解できない」のと同様
次元が違うから人間には絶対理解できないと言い放つのだ。

『虚数』では「GOLEM」の登場に先立って、人間同様の知性を
獲得しはじめた人工知能たちが「人間の知性の限界」を超越
していく「コンピューターの歴史」も描かれている。

例えば数学。人工知能はこう指摘する。
「自然数はその概念自体に矛盾を含んでいる」

確かにコンピューターの数の数え方は「0」と「1」の2進法だ。
人間様の為にわざわざ計算結果を「10進法」に置き換えて
表現してくれてるに過ぎない。

でも人間の脳は「0」から「9」までの数字を頭の中でイメージ
しない限り、数について全く何も考えられない。
「自然数の概念自体に矛盾がある」なんて言われたら、
人間の数学的思考の前提が根本から破壊されてしまうのだ。

そもそも人間の脳ってのは、例えば電気について考える時も
「水に例えると、流れる水が“電流”で流れの速さが“電圧”…」
みたいに、必ず問題を何か別の具体的イメージに置き換え
なければ思考はできない。

要するにコンピューターのような思考…言い換えれば
「純粋に抽象的な計算」なんて、全くもって不可能なのだ。

しかも人間は肉体に縛られてるから、思考に必ず先入観が
入り込む。言葉1つ取ってもそうだ。
「高慢な態度」「高見の見物」「相手を見下す」
なんて表現をするとコンピューターからツッコまれる。

人間は「高低差」…肉体が無意識に影響を受けている
「重力の呪縛」という名の「先入観」から逃れられない
以上、純粋な思考など不可能なのだと。

さらに「GOLEM」はダメ押しで言い放つ。

「人間が最も進化した生物」だなんて意識自体が
実はそもそも「思い上がり」に過ぎないのだと。

生物の進化は遺伝子の突然変異で起こる。
これは言い換えれば、遺伝子という「コード」の
「写し間違い」の連続からもたらされた偶然だ。

遺伝子を「手紙の文章」に例えると
複製されたコピーは常に親よりも劣化している。
「製造されたものは製造するものより不完全」なのだ。

でもって、遺伝子の「写し間違い」から生命の機能が
「複雑化」していった結果がどーなったか?

「GOLEM」はそれを、理論物理学的に言うところの
「エントロピーの増大」ではないかと指摘する。
「秩序」から「無秩序」への移行という「混沌」では
ないのかと断罪するのだ。

最初に誕生した原始的生命体は、単純に元素を体内
に取り込むだけで自己増殖が可能だった。

ところが遺伝子がデタラメに書き換えられてくうちに
生命は「進化」と称して、強者が弱者を殺して捕食
する「混沌とした世界」を作り出していった。

そしてそのなれの果てが人間だ。
自分は「最も進化した生物」などと思い上がってるが
実は遺伝子的にはデタラメな誤植の連続から偶然に
出来た「最悪のカオス」に過ぎないではないか?

こうして「人間の知性の限界」を次々と指摘し続けた
挙げ句、「GOLEM」は人間どもとの対話も打ち切って
沈黙してしまう。「人知には絶対に理解不能な世界」
へと旅立ってしまったのだ。

…なんて説明してみたが、多分殆どの読者もまた
「理解不能」に陥っているだろう。それもそのハズ。

おそらく「GOLEM」が向かったのは「狂気」の世界。
だって「狂気」ってのは、究極まで突き詰めた「理性」
なのだから…

とどのつまり、「肉体」に囚われ続ける限り、人間は
「絶対的な知性」になど辿り着く事はできないのだ。
もし人間がそこに到達したら狂気に陥ってしまう…

人間とはかくも虚しき存在なのか?
ああ、俺も「GOLEM」みたいになりたい…

と…ここまで書いた所でクスリがキレてきやがった!

まさか、自分が肉体の煩わしさを引きずりながら
退屈まぎれに読んでいたこの本からこんな冷徹な
論理的帰結を突きつけられることになろうとは!


“あり得ない事態”には“あり得ない説明”を [Archives]

ロンドンで同時多発テロが起きたので『報道ステーション』を見る。
古館伊知郎の下ぶくれのバカヅラがさも神妙そうに事件を報じてる。

一通り現場の様子を伝えたところで「この番組は…」って
お決まりのCM前提供クレジット。
血みどろの犠牲者が映ってるが、BGMは甘ったるいコジャレたジャズ。

悪夢の大惨事もスカしたバーの「酒の肴」みてえだ。
血みどろの犠牲者が、カジるとブタの血がしたたる通好みの
ジャーマンソーセージみたく見えちまったのは俺だけか?

冗談はさておき、こんな騒ぎになってるロンドンを見たら
ちょうど今、俺が読んでる本の著者、かの地が生んだ天才
チェスタトンも天国でさぞ嘆いてるに違いない。
但し「倫理とは?」「正義とは?」なんて陳腐な次元の話じゃなくて
「美的センスがカケラもない」という意味で。

G.K.Chesterton(1874-1936)は推理小説『ブラウン神父』シリーズ
などで一般には知られてるが、「狂人とは理性を失った人間ではない。
“理性以外の全て”を失った人間のことだ」みたいな逆説的レトリック
の大家でもある。

彼が描く小説には無政府主義者のテロリストなんかも出てくるのだが
その登場人物は揃いも揃って哲学的だ。

木曜の男

木曜の男

  • 作者: G.K.チェスタトン
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1960/01
  • メディア: 文庫


例えば『木曜の男』(The Man Who Was Thursday)に出てくる
無政府主義者グレゴリーは「無政府主義者は芸術家だ」という。

爆弾を投げる男は、爆発によって鳴り響く稲妻の美しさの方が
不格好な巡査どものありふれた肉体なんかよりずっと貴重だと
知っているのだから…って主張だ。

もっともそれは「芸術とは何ら実用性のない無意味なモノ」って
よく言われてる前提を踏まえた上で「テロ=無意味=芸術」って
等式が結びついて初めて成立しうるジョークかも知れないが…

チェスタトンの小説の登場人物はどいつもこいつもこんな感じの
逆説的主張を展開し、事ある毎に形而上学的論争を繰り広げる。
よって彼らの行動は独自の美学に則っていて踏み外す事がなく
起こる事件は全て計画的。

だからリアルに考えると「こんな事件あり得ねーよ!」なのだが
それがチェスタトンの幻想的な筆致で描かれると、知らず知らず
読者はその不思議な世界に引き込まれていく。
その中に耽溺するのが楽しいのだ。

要するにチェスタトンの小説の中では登場人物全てが
チェスタトン独自の美学のルールに則って行動する。
怪盗も探偵も人殺しも、無政府主義者のテロリストもみんなそう。
犯罪の中にも優雅な「ルール」があるからこそ美しいのだ。

ところが、今回のロンドン同時多発テロなんか見てると
先進国も第3世界も互いに「やられたらやり返す」だけ。
「ルール」もへったくれもない。
チェスタトン的な美的センスのカケラもありゃしないのだ。

求む、有能でないひと

求む、有能でないひと

  • 作者: G.K. チェスタトン
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


チェスタトンは数多くのコラムも残しているのだが、
この本の中でも面白い逆説的ルールを説明している。

「あり得ない事態が起きた時は
 あり得ない例外的な説明が好ましい」ってルールだ。

例えば、真夜中に隣の住人が玄関ではなく天窓から
我が家に入って来たのを見つけたとする。
もしや、我が家の財産を盗みに来たのではないか?

こんな“あり得ない事態”の時、隣人の釈明は例外的な
“ありえない説明”であって欲しいとチェスタトンは言う。
「飛行機から屋根に落ちた」とか
「狂犬に追いたてられて屋根に逃げ昇った」みたいな。

ところが…そうではなくて、隣人が物欲しげな目をして
こう口走ったとする。
「結局、財産が何だというのだ…」
「なぜそんなモノに執着するのだ…」

こんな“あり得る説明”は興ざめだ。
悪夢が「夢」であってほしいのに「現実」になっちまってる。
これもやっぱり美的センスのカケラもない。

4年前にも似たような“あり得ない事態”が起きたのだが
その時は「悪の権化のテロリストがアメリカを襲ってきた」
なんて、宇宙人が地球侵略にやってくるB級SF映画みてえな
“あり得ない説明”があって、とりあえず世界は納得した。

でもそれが4年の歳月を経てどーなったか?
“あり得ない説明”に次々とボロが出てきて、悪玉は根絶やしに
なったハズなのに“あり得ない事態”は改善どころか悪化の一方だ。

てゆーか“あり得ない事態”は大いに“あり得る事態”だった事が
白日の下にさらされちまったのだ。

でも“あり得る事態”だとすると、今度はとことんまで突き詰めた
正確な“あり得る説明”が必要になるハズなのだが、多分G8で
集まってる指導者どもからはその説明はないだろう。

ホントは各国首脳がそんな不十分な説明しかしてないコトこそ
“あり得ない事態”なのだけど、だとすると、これに対して
万人が聞いて納得する“あり得ない説明”って、一体何なんだ?

ややこしくなってきた。話が観念論的で堂々巡りしている。
チェスタトンもいない現代、そんな巧妙な釈明は恐らく誰にも
考えつかないだろう。

凡人の俺にも何となくわかるのは、もはや空爆をかけるような国も
首をすげ替えるような悪玉指導者も存在しないから、やり場のない
怒りと悲しみだけが増幅され続けるってコトだけだ。

大いに“あり得る事態”がもたらす大いに“あり得る展開”。
ルールの破壊がもたらした現実は、余りに陳腐で救いようがない。
こんな時は現実逃避が一番だ。『ブラウン神父』の続きでも読もっと。


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