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差別を助長する「抗議のパラドックス」 [Archives]

何から何まで間違ってる。

    

レイザーラモンHG仕様の「黒ひゲイ危機一髪」
セクシャルマイノリティー教職員ネットワークって
団体が目くじら立てて発売中止を求めてる。
以下、その言い分を引用。

   ×   ×   ×   ×

同性愛者およびそれを連想させる人物を樽に入れ、
剣で突き刺して「楽しむ」という玩具の発売は、
同性愛者に対する差別である。

玩具で遊ぶ子どもたちに、同性愛者は差別して良い
のだという意識を植え込む恐れのある玩具である。

現在、我が国には「同性愛者は異常な存在だ」という
社会的偏見のもと、 自己の存在を受け入れることが
できずに苦しんでいる同性愛者が多数存在します。

また、同性愛の子どもたちの多くは周囲から「ホモ」
「おかま」と揶揄され、いじめの対象にされ、また、
自らの性的指向に悲観して自殺を図る子どもたちも
多数おります。

この社会には残念ながらさまざまな差別、社会的偏見が
存在しています。 今回発売が予定されております玩具は
明確に「ゲイ」を打ち出しているものです。

もし樽の中に入れられる存在が同性愛者ではなく
障害者や在日コリアンだったとしたら、そしてその人たちが
入っている樽に剣を突き刺して「楽しむ」玩具があったと
したら、そのような玩具を貴社は発売なさるのでしょうか。

   ×   ×   ×   ×

言い分自体はまぁごもっともに見える。
取る者によっては「差別」や「偏見」と捉えかねないモノ
の排除を目指すPolitically Correctな運動の典型だ。
「ハイそうですか」と同調するのが無難な感じ。

では、だからと言ってこの玩具を発売中止に追い込めば
それで問題は解決するのだろうか?

「同性愛者」というマイノリティー集団が最終的に得る効用
を考えると、実はこの抗議は何ら生産的じゃないどころか、
かえって「同性愛」に対する偏見や差別を助長するだけの
「戦略的失敗」に他ならないと思うのだ。

まず「差別してよいのだという意識を植え込む」と言うけど
別に同性愛に限らず、あらゆる種類のマイノリティーに対して
大多数の人間が抱く違和感って、大人が子供に「植え込む」
コトで形作られるモンじゃねーと思うのだ。

例えば、同性愛的な指向を持たない3〜4歳の男の子は
「お人形」よりも「兵隊」や「戦闘機」のおもちゃを欲しがる。
親がどんなに「ままごと」を勧めても残酷な「闘い」を好む。

逆にホモセクシャル的指向を持つマイノリティーの皆様は
子供の頃から「黒ヒゲ」より「お人形」が好きだった自分を
思い出すケースの方が多いんじゃねーのか?

親や環境が「同性愛」の子供を作り出すとは思えない。
多分それは「植え込み=学習」で発現する性質じゃなくて
「持って生まれた傾向」なのだ。
同じように「黒ひゲイ」が子供に「差別意識を植え込む」
って発想も単なる幻想じゃねーのか?

所詮おもちゃとか低俗なテレビ番組とかお笑い芸人って
その子供の生まれ持ったパーソナリティーを発現させる
「引き金」に過ぎない。それを無くせば問題が解決する
ってのは「因果関係の履き違え」だと思うのだ。

さらにそこから「もって生まれた人間の性質」を考えると
一般に大多数の人間は同じタイプの人間と群れたがり、
タイプの違う少数派を排除する本能的な傾向がある。

「マイノリティー」はそれ故、自らが排除されやすい状況
にあると充分に自覚した上で行動しなきゃダメだ。
「黒ひゲイ」に抗議行動を起こしてる同性愛者団体は
その点で戦略的に間違ってる。

大体、殆どの人間は「黒ひゲイ」から同性愛への差別
なんてところにまで連想が届かない。
逆にそんなコトを言い出す同性愛者の方が自意識過剰
じゃねーのか?重箱の隅をツツきまくってコトを荒立てて
勢力を誇示するタチの悪い圧力団体にも見えてくる。

俺もたまに「バカは死ね」なんて言ってるから
抗議やら非難やらをよく浴びるのだが、何を隠そう、
実はその手合いは自分をバカだと思ってるからこそ、
俺の物言いに腹を立てるのだ。

自分をバカだと思ってないヤツは俺に抗議しない。
一緒にバカを笑ってる。
その意味で俺は「バカのリトマス試験紙」なのだが
「黒ひゲイ」に腹を立ててる奴らにもそれとよく似た
アタマの悪さを感じる。

刺されて吹っ飛んで笑われてるのは
「レイザーラモンHG」であって、カミングアウトするか
しまいかウジウジ悩みながら傷をナメ合う同性愛者
のコトまでいちいち考えてると思ったら大間違いだ。

なのに「被害者意識」丸出しで腹を立てやがる。
だからダメなのだ。

中でもダメなのは「マイノリティー」つながりで
「障害者」まで持ち出して「弱者」としての位置づけ
を正当化しようとする態度。
論理の飛躍にもほどがあるんじゃねーか?

同性愛者が生きていくのは障害者ほど困難じゃない。
障害者がパイロットやプロのサッカー選手になるのは
極めて難しいが、別に同性愛者はそうじゃない。

セクシャリティー以外、殆どの場面で支障はない。
なのに抗議する同性愛者は「被害者意識」丸出し。
しかも「障害者」まで論理の盾に持ち出しやがる。

それは逆に障害者に対して失礼だ。
障害者の中には「弱者」として扱われるのを拒んで
力強く生きてる人間もたくさんいるからだ。

「マイノリティー」と「弱者」はイコールじゃない。
一緒くたに「弱者」扱いされて社会から負け犬扱い
されたくなんかねえハズだ。

加えて言っとくと「同性愛者は寛大に扱え!」と
大多数の人間にはかなり抵抗感の大きい難儀な
要求を平気で突きつけておきながら、テメエだけ
は他愛のない冗談にまで過剰反応して目くじらを
立てられる「心の狭さ」って、一体何?

そーでなくても現代はかつてないほど同性愛が
「心の広い社会」から認められてる時代なのだ。
そこでマイノリティーが偏狭さを剥き出しにして
社会に受け入れられるハズがない。

だから反感買って余計嫌われるのだ。
そして「偏見」と「差別」はより根深くなる。
これが差別を助長する抗議のパラドックスだ。

どだいマジョリティーと全く平等にマイノリティー
を扱わせようって発想からしてノーテンキ過ぎる。
全くの絵空事だ。両者は決して相容れない。

マイノリティーはマイノリティーなりに自分が社会
から受け入れがたい存在であるコトを自覚した上で
違う戦略で戦わなければいかんのだ。
多分、戦略を狂わせてるのは「怒りの感情」だ。
ではその怒りは一体どこから来るのか?

思うに、実はこの抗議団体が訴えてるテーマは
単なる「お題目」で、ホントの怒りの矛先は全く
別の所にあると俺は感じてる。

    

単純な話。怒りの根源はレイザーラモンHGが
恐らく正真正銘の「ゲイ」じゃないって点だ。
とりわけモノホンの同性愛者にゃあ「ニオイ」で
それがわかるのだろう。

ニセモノが同性愛をネタに笑いを取ってる。
モノホンの人たちが「バカにされてる」と感じる
のは想像に難くない。

だったら正面切って「アイツはニセモノだ!」
と糾弾でもすりゃいいモノを、全国的ブームに
になっちまってるから、その勇気もなかった。
で多分、シッポ掴める格好のネタが出てくる
まで、ずっと手ぐすね引いて待ってたのだ。

しかしHGブームは、もう終わりつつある。
行動が遅すぎるって点でも戦略的に失敗。

誰もマイノリティーとしての「同性愛者」なんて
真剣に考えることもなく、一般大衆の記憶に
残るのは「フォ〜!!」のかけ声だけ。
同性愛者たちにはあのレイザーラモンHGの
強烈な絵ヅラのイメージだけが遺される。

どの道、悩める同性愛者は誤解されたイメージ
に過剰な「被害者的自意識」を抱き続けて、
ポジティブな同性愛者はHGのネタで周囲の
笑いを取り、たくましく社会に根を張っていく。

結論として社会は全く変わらない。
とどのつまり、抗議そのものが本質的に不毛。
「政治的に正しい」とか間違ってるとか以前に
腹を立てたままやり場がなくなっちまってる
そのエネルギーのムダが最大の問題なのだ。


悪魔ニ「共感」シテル俺 [Archives]

ベガーズ・バンケット

ベガーズ・バンケット

  • アーティスト: ザ・ローリング・ストーンズ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルインターナショナル
  • 発売日: 2002/11/09
  • メディア: CD

このアルバムに入ってるThe Rolling Stones
の〝Sympathy For The Devil〟の邦題が
『悪魔を憐れむ歌』なのは違和感を覚える。

だってこの曲、悪魔を「憐れむ」なんてこたぁ
全くしちゃいねえんだから。
確かに英和辞書で〝Sympathy〟を引くと
最初に出てくるのは「同情する」「憐れむ」だけど
本来は「共感する」って意味だ。

なんでまたこんな話するかってゆーと…

    

広島女児殺人犯のペルー人が言ってた
「悪魔が入ってきた」って言葉に
俺も「共感」しちまったからだ。

 

最近は似たような事件が多い。
栃木でも女児が殺されて
今度は塾の講師が女生徒を刺し殺した。
「悪魔が入ってくる」ヤツはかなり多い。
そして俺もその予備軍の1人なのだ。

また誤解を招くかも知れない。
でも俺的には「人でなし」と言われようが
もうどーでもよくなってる。
だって正直にそう感じたのだから。

確かにあのペルー人の供述は二転三転だし
本国でも同じような犯行を重ねてた。
当初判明した名前が偽名だったのも
前科を隠す為だったんだろう。

だから問題の「悪魔が入ってきた」って供述も
精神疾患を装った減刑狙いなんじゃねーかと
多くの人間は思う。

特に子を持つ親は生理的に嫌悪感を覚える。
「何が悪魔だ。ウソつきやがってフザけるな」
そりゃ自然な感情だし、俺も被害者感情まで
逆撫でする気はない。

しかし俺は犯人が他のあらゆる面でウソを
ついてたとしても「悪魔が入ってきた」って
表現はいたって正直だと感じてしまう。

  

てゆーのは、俺も前に「悪魔が入りこんだ」
コトがあったからだ。そしてそれはまた
いつ再発するかわからねえ。
とりあえずテメエがまだマトモなうちに
その「悪魔」を説明してみよう。

     

俺の場合は、今から7〜8年前だったか?
その「悪魔」とエレベーターで会った。
もっとも兆候はその前から現れてたけど。

最初のきっかけは当時、一番調子よかった
仕事が突然終わったコト。
それ自体は俺のせいじゃなかったのだが
歯車は1つ狂うと全てオカシクなるもんだ。

その後も仕事先でケンカしてクビになったり
みてえな事件が立て続いて、ふと気づくと
睡眠もロクに取れなくなってた。

そして仕事の1つに穴を開けた。
原稿書いてたら、「続いては…」って後に
続く、文字数で言うとほんの2〜30字分
の簡単な説明が表現できなくなったのだ。

同じ内容の文章を一晩中あーでもねえ
こーでもねえと接続詞を変えたり形容詞を
変えたりしてるのに、「これでよし」って
気になれない。全く先に進めない。
いわゆる強迫観念に取り憑かれたのだ。

それで〆切に間に合わなかった。
完全にアタマがおかしくなってたのだ。

そんな時に、どーしても行かなきゃならねえ
用事で仕事先に出かけた。その打ち合わせ
も何も思い浮かばず、うまく行かなかった。
自分が「取るに足らない」人間に思えた。

    

で、その帰りに乗ったのが
全面ガラス張りの高層ビルのエレベーター。
観覧車が見えてた。天気もよかった。
でも、その時は何かが違う感じがした。

それが何か分かったのはエレベーターが
下がり始めた時だ。

  

何というか? 地獄に堕ちてく感覚だ。
地獄って「血の池」とか「針の山」みてえな
光景を思い浮かべてたが、違うのだ。
多分、地獄はこの世にある。

もう生きてるコト自体が苦痛だった。
「ここから飛び降りた方が楽じゃねーか?」
大袈裟だと思われるかも知れねえけど
ホントにそう思ったのだ。

そしてその時の俺は俺じゃなかった。
「人間」というより「機械」だった。
そもそも何も考えられなかったのだ。

    

例えて言うと「スイッチ」が少しずつ
オンになって「突き動かされる」感じ。
マトモな精神状態なら絶対やらねえ
ことを「衝動的に」したくなるのだ。

それでヤバいと思って病院に駆け込み
今もその種のクスリ飲み続けてるのだが、
思うに、多分アレがペルー人の言ってる
「悪魔が入ってくる」だったのだ。

俺の場合は、別に他人を殺してえとは
思わなかったけど、「衝動」なのは同じ。
その違いは要するに衝動のベクトルが
「内向き」か「外向き」かってだけ。

そしてこの種の衝動を抱えてるのは
別に俺だけじゃないだろう。
〝Sympathy For The Devil〟の悪魔も
こんなコトを言ってる。

〝Just As Every Cop Is A Criminal
 And All The Sinners Saints
 As Heads Is Tails〟
「全ての警官は実は犯罪者で
 全ての罪人は聖人。表裏一体だ」

ちなみに俺の卒業した高校じゃ
俺の在籍当時に理事長として
俺らに「人の道」を説いてた神父が
後に赴任した別の学校の職員を
刺し殺した挙げ句に自殺してる。

神父さえも簡単に人を殺すのだ。
「俺は全うに社会人として生きてる」と
自負できる奴にゃ理解できねえだろう。
でもごく一部の人間だけに「異常性」を
押しつけて非難するのは簡単だ。

ワイドショーのコメンテーターみてえに
ロリコンブームやら何やらに事件の真相を
単純に落とし込んで「怖い事件ですね」で
済ませりゃ、それで事件は無くなるのか?

大学の同期の警察官僚はこう言ってた。
「殺人事件の供述証書取ってると
 話の辻褄なんか全く合わないのが殆ど。
 ホント下らない動機で簡単に人殺すぞ」

以下はそいつが担当した殺人事件。

事件が発覚したきっかけはラブホテルの
ウォーターベッドが異常に膨張したコト。
マットの下に隠されてた女の死体の体内
で細菌が異常発酵して膨張したらしい。

刑事ドラマにでもなりそーな冒頭だ。
予期せぬ遺体の膨張は計画殺人を突き崩す
被害者の「ダイイングメッセージ」ってか?

ところが、そっから先がどーにも陳腐だ。
被害者は売春婦で、同業仲間への証言など
からあっけなく挙がっちまった犯人は
顔見知りの常連客。しかもその動機が…

「8000円でヤるって言ってたのに
 部屋入ったら1万円って言われた。
 金がないって言ったらバカにされて
 カッとなって殺した」

正確な金額は忘れちまったけど
たかだか2000円程度で人殺すのだ。
これも俺には犯人のオヤジに
「悪魔が入りこんだ」としか思えない。

そして悪魔は誰にでも簡単に入り込む。
今年読んだ中でそれを説明してたのはこの本。

心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈下〉

心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈下〉

  • 作者: スティーブン・ピンカー
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2003/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

心のメカニズムをどれだけ科学的に説明できるかが
テーマの『心の仕組み(How The Mind Works)』は
アメリカでベストセラーになった認知科学モノ。

一方で物議を醸す内容だったりもするモンだから
その名も〝The Mind Doesn't Work That Way〟
ってタイトルのアンサーブックまで出てる。

それはともかくとして、この本に
インドネシアの「アモク」の話が出てくる。

「アモク」はマレー語で、愛やカネや面目を失った
孤独な人間が時に引き起こす殺人騒ぎのことだ。

この心理状態に陥った人間は周囲の状況が全く
目に入らず、説得も脅しも利かないオートマトン
(自動機械)と化す。

その「アモク」に陥った殺人犯7人に心理学者が
行った聞き取り調査を要約すると…

「俺は重要人物じゃない。
 俺なりの自尊心を持っているだけだ。
 俺の人生は耐え難い侮辱でしかなくなっちまった。
 だからもう、何の意味もない命以外失うモノはない。
 だから俺の命を他人の命と交換する。
 交換は俺の為だから、一人じゃなくて大勢殺す。
 そして俺が属してる集団で名誉を回復する。
 その途中で死んでも構わない」

    

ちなみにコレ読んだ時、池田小の殺傷事件の
宅間守が思い浮かんだのは俺だけか?
「俺の人生は耐え難い屈辱でしかなくなっちまった」
のは俺もそーだった。
ここでも前半の4行までは俺も「共感」しちまうのだ。

それを俺は「突然スイッチが入った」と表現し
ペルー人は「悪魔が入ってきた」と呼んだ。
形而上学的に「悪魔」など存在しないと仮定
した場合、その正体は一体何なんだ?

ピンカーはこう説明する。
「アモクを誘発するのは外的刺激でもなければ
 脳腫瘍でも脳内の化学物質のデタラメな放出
 でもなく、ある観念」だと。

しかもそこには多くの人間が陥る可能性のある
「普遍的」で「独自の冷たい論理」があるという。

つまり殺人衝動さえ、実は「論理的」だってコト。
もちろんその感情の働きの論理は不合理だし
マトモな人間にゃ理解さえしたくねーだろうが、
人でなしには人でなしなりの「歪んだ論理」が
どーもあるみたいなのだ。

さらにピンカーは幾つかの仮説も提起してる。
面白いのは政治学者ジェームス・Q・ウィルソン
と心理学者リチャード・ハーンスタインの指摘。
「犯罪者は不当に低い割引率で取引する」って
説明だ。

「割引率」は経済学とかによく出てくる概念だ。
例えば、今持ってる現金1万円が将来、いくら
になるかを考えて投資家は株を買う。

     

今持ってる現金を、この株を買うのに使えば
×年後に5%や10%、下手すりゃ200%増える
かも知れねえぞと「割引率」の計算が全うに
できてるから、ライブドア堀江や村上ファンドは
株投資で儲けが出せるワケだ。

しかし女児殺人を「ビジネスモデル」と想定し
その「割引率」を考えてみると、それにかかる
コストとリターンはどう考えても割に合わない。

例えば犯罪者がそれを実行できたとすると
「1億円」に相当する快感が得られたとする。
まあ滅多にできねえことだから。

しかしコレをやっちまうと大概捕まっちまうし
最悪だと「死刑」が待ってる。
死刑にならないとしても、もはや社会復帰は
できねえ。周囲や家族にも迷惑がかかる。

今風に言うと「プライスレス」ってヤツで
100億円の価値でも釣り合いが取れねえ。
どう考えても「不当に損な取引」だ。
だけど犯罪者はそれを平気でやっちまう。

宅間守なんかもその典型。
多分、「殺した方が得」みてえに「割引率」
の計算が狂っちまうのだ。

逆に言えば、何となく誰もが直感で感じる
「人を殺しちゃダメ」を道徳的に説明する
のも、実は単なる後付けじゃねーのか?

マトモな感覚だったら「それやったら損だろ」
だからやらねえだけじゃねーのか?
とどのつまりは「損得勘定」じゃねーのか?

ただウィルソンとハーンスタインはこうした
「脳の計算間違い」の原因が「知能の低さ」
にあると考えてるらしく、それもまた短絡的
な結論としか思えない。

自殺も殺人のバリエーションの一種と考えりゃ
学者や哲学者で自殺してる人間は沢山いる。
「知能の低さ」だけで説明するには無理がある。

そこで次に出てくるのが心理学者の
マーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの解釈。
人間の脳は「近視眼的な割引」をさせる「錯覚」が
時と場合によっては働きやすくなるって説明だ。

例えばダイエットを決意しながら、腹が減った時に
目の前にケーキを見せられてつい食っちまうような
経験は誰にでもあるモノだ。

俺も糖尿だからダメだと医者に言われてるのに
時々ラーメンのスープを全部飲んじまったりする。
今年、肺ガンで死んだ人間の葬式に出た後も
直後に休憩室で平気でタバコ吸ってたりする。

つまり人間は近視眼的な「錯覚」を起こしやすく
未来より現在の利益に囚われやすい。

しかも人殺しをしでかすような人間の多くは
「別に死んでも構わない」と思ってる。
だとすると「将来が無い」ってコトだから
今手に入る快楽=利益を得ようとするのは
実はある意味「論理的」だったりするワケで。

おかしいのは最初の前提が「錯覚」なだけ。
あとは論理的に辻褄があってる。
人殺しする人間とそうじゃねー人間の違いって
実はそれだけなのだ。

そもそも「人を殺しちゃいけません」ってルールが
定着してきたのも実はほんのここ数百年の話だ。
それ以前の100万年ぐらいは他人を殺すことが
生き残る為には有利なコトも多かった。

そして、そーやって生き残ってきた「人でなし」ども
の子孫こそが今の俺らなのだ。
しかもその衝動は全く治まってない。

だって俺らの少し上の世代は人種・国籍を問わず
平気で殺し合いをしてた。ほんの60年前の話だ。
しかもそれを嬉々としてやってのけたりもしてた。

中東の自爆テロにしたって、「スイッチ」さえ入りゃ
人間が簡単に起爆装置になるってコトだ。
様々な証拠が「殺人マシン」としての人間の特質
を物語ってるのだとしか俺には思えない。

人間の脳は殺人という、現代社会においては
「不当に損な取引」を悪魔と取り交わすような
「錯覚」を引き起こしやすいってコトなのだ。

それを忘れて一部の人間の「異常性」だけに
原因を落とし込むのは虫のよすぎる話だ。
てゆーかそれも、人間の本質から目を背けて
「自分は違う」と安心していたいが為に
引き起こされる「錯覚」じゃねーかと思うのだ。

で、またこんなコト言ってると
「じゃ殺人が起きるのは仕方ねえってコトか」
とか非難されたりするのだが、それもそれで
「近視眼的」な短絡的思考だ。

たとえ殺人が「本能的な衝動」だとしても
多くの人間はその本能をちゃんと抑えられてる
ワケで、それが責任を逃れる理由にゃならねえ。
「衝動」は誰にでもあるが、それを実行するのは
結局のところ「自由意思」なのだ。

やれるコトと言えば、本能を抑えられる人間が
その原因を正しく理解した上で「できねえ人間」
をどーするか議論するってコトなのだ。

「獣としての情動」を引きずったままアップデート
されてない脳という「欠陥品のコンピューター」に
人間誰しもが突き動かされる可能性があるって
コトを前提に対策を考えなきゃならんのだ。

でも、今の論調を見てるとそれをやろうって奴は
殆どいやしねえ。どいつもこいつも事件の見かけ
に「近視眼的」に囚われてる。
そしてまた、モラルやお説教の繰り返し。

もっとも俺も「近視眼的」錯覚から抜け出せねえ。
「もういつ死んでもいいや」と思ってる。
俺の行動の全てがその前提に則ってる。
だから後先も考えずに言ったり書いたりする。

これも思うに、自分じゃもうおさまったと思ってた
「衝動」が今も続いてるってコトなのだ。
長期的な損得勘定は明らかに「損」だ。
テメエのクビを絞める「破滅」に繋がってる。

そんなコトは百も承知なのだ。
なのにそれでもやめられない。
そして多分、またいつかあの「スイッチ」が突然
入るんだろう。その意味で俺は悪魔に「共感」し
その悪魔に魅せられ続けてる。


12月の「バカは死ね」 [Archives]

    

月刊誌『CIRCUS』連載中
『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』

今月のテーマは『テレビブロス』のコラムで
靖国問題とかマジで語っちゃってる爆笑問題
の太田光など「お笑い文化人バカ」。

そのコラムを読んでて一番笑えるのは
マジメな論調を笑いの1つも取ることなく
マジメに書きさえすれば文化人になれると
勘違いしてるイタさ。

文章がカタイとかポップじゃない以前に
当たり前の論調を何のヒネリもなく書ける
無神経さって、実は知性の無さの表れだ。

マトモな読者なら「何今さら当たり前なコト
言ってるの?」って思っちまう内容を平気で
書いてる。その恥ずかしさに気付いてない
コト自体がバカの証。

そー考えるとバカってのは知識ウンヌンより
「感受性の鈍さ」で定義されうるのかも。


今週の「バカは死ね」/「信頼という土台」の液状化 [Archives]

    

耐震強度の偽装問題で話題の「ヒューザー」だが
某大手広告代理店に勤める大学の同期が
その「ヒューザー」のマンションに住んでるんだとさ。

幸い、小島社長が姉歯建築士と知り合う前に
建てた物件で、かつ賃貸だから問題ないらしいが
それより心配なのは、もしかするともしかして
そいつは「家にいる方が安全」かも知れねーってコトだ。

思い出したのは、何年か前に聞いた業界話。
「汐留のあのビルはヤバいって」
飲みの席で切り出したのは大手ゼネコン社員。
「さすがにウチもあの仕事は受けなかったなぁ…」
実家の鉄工所を引き継いだ男が口を揃える。

俎上に上がったのは「ヒューザー」物件に住んでる
大学同期の勤務先。当時完成したての本社ビル。

ゼネコン業界の2人の話では、どーもこの代理店、
新社屋の建設費用を値切り倒しまくったらしい。

当時のゼネコン業界は不況のどん底。
そこに現れた久々の大プロジェクトの受注を巡り
熾烈な価格競争が繰り広げられたという。

代理店はその足下を見て無茶な要求を突きつけ
おかげでゼネコン業界では「あり得ない金額」まで
建設費用が下がったのだという。

その受注は受けなかった大手ゼネコンいわく
「受注を受けたジョイントベンチャーが途中で
 悲鳴上げて加わってくれと泣きついてきたけど
 ウチは断った」だとさ。

「価格競争」は経済を突き動かす基本原理だ。
例えば車を買う時、同じ車ならばより安い値段で
買える方がいいに決まってる。

でも、車じゃなくて「建物」だったらどーなのか?
そこで初めてゼネコン業界の実情を聞かされた。
実を言うと建設会社は、予算が決定した時点で
「それに応じた器を作る」のだという。

つまり予算に応じて、後から材質をそれ相応に
変えたり、材質自体減らしたり、下請けの業者を
締め付けることで、何とかして黒字を出す。
それが「当たり前」だというのだ。

考えてみりゃ確かに「当たり前」だ。
一旦作った車の部品を減らすのは不可能だけど
建物の場合は工事の前に予算が決まる。
外観や内装は変えられないが、見えない部分は
どーにでもなる。

そんなワケで大手ゼネコンいわく
「完成したあのビルにこの前行ってみたけど
 エレベーター安くして採算取ってるな」みたいな
業界の人間じゃなきゃわからねえ裏話を面白く
聞かせてくれた。

もっとも構造自体に問題がなけりゃいいのだが
鉄工所の跡継ぎも
「依頼は来たけど、無茶過ぎるから下りたわ。
 アレを受けた業者の気が知れねえ」だって。

だとすると…今、汐留に屹立してるあのビルには
一体どんな鉄骨やセメントが使われてるんだろ?

東京を大地震が襲った時、俺の同期は家と会社、
どっちにいる方が死ぬ確率が低いんだろ?
それをホントに確かめる方法はあるのだろーか?

そんなコトを考えていた最中、さらに笑ったのが
「ヒューザー」のマンションを「建築Gメン」に
調査させる企画を番組でやった、テレビ業界の
知り合いの話。

「建築Gメン」がビー玉転がしたりした結論では
「この物件はとりあえず大丈夫」。
ところが、それが後になって「偽装マンション」
と判明したんだとさ。

もはや「建築Gメン」さえデタラメだ。
「調査」って一体何?「信頼」って一体何?
土台が根本からグラついてる。
とどのつまり、どいつもこいつも脳ミソまで
液状化してやがる。


聖書再解釈②バベルの塔と「文法遺伝子」 [Archives]

しばらくブログに「放置プレイ」をカマしてたら
随分昔のエントリーにこんなトラックバックが。

    

てなワケで今回は長らくほったらかしにしてた
『聖書再解釈』の続き。

    

旧約聖書の『創世記』で「ノアの箱船」の次に出てくる
有名なエピソードと言えば「バベルの塔」の話。

    

ガキの頃に『バビル2世』を見てた同世代の為に
補足しとくと、バベルの塔が「砂の嵐に囲まれてる」
ってたぐいの記述は聖書には一切ない。
あと「怪鳥ロプロス」と「ポセイドン」と「ロデム」も
全く出て来なかった。

実のところ、旧約聖書に書いてあるのはコレだけ。

洪水を生き残ったノアの子孫は定住して町を作り、
その中央に天まで届くような高い塔を作ろうと考えた。
仲間が散り散りにならないようにする為だ。

ところが、塔がどんどん高くなっていくのを見て
〝神様〟は激怒する。
「彼らがみな、一つの民、一つのことばで
 このようなことをしはじめたのなら、
 今や彼らがしようと思うことでとどめられることはない」

そこで〝神様〟は人間たちの言葉が互いに通じない
ようにする。意思疎通が取れなくなって現場は大混乱。
塔の建設は中止となり、人々は散り散りになっていった。
だから今、世界中の民族がさまざまな言葉をしゃべる
のは、この『バベルの塔』のせいなんだとさ。

とりあえず大昔の聖書の言い伝えをまとめてみると…
①当初、人類は〝1つの言語〟を持っていた
②それがやがていろんな言語に別れた
③おかげで人類はまとまらず、争いが絶えない
…ってコトになる。俺が注目したいのは上の2つ。

「今、世界中の人間がしゃべってるいろんな言語には
 かつて共通の言語があった」と聖書は書いている。

もしかすると、コレは文明化する以前の人類の進化の
プロセスをおとぎ話のカタチで物語った「歴史的史実」
なのかも知れないのだ。

確かに世界の言語には幾つもの共通点がある。
脱線になるが、関連して思い出したのがこの話。

蕎麦ときしめん

蕎麦ときしめん

  • 作者: 清水 義範
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1989/10
  • メディア: 文庫

清水義範のこの本に「序文」って短編がある。
言語学者が「英語のルーツは日本語」だとする
トンデモない学説を発表する話だ。その根拠が…

英語の「Name」は「Namae(名前)」とそっくり。
同じく「Boy」は「Boya(坊や)」とそっくり。
この発音面での類似は英語のルーツが日本語
であるコトの証拠だと主張し始めるのだ。

読んだ当時は笑ったが、ふとこの話を思い出して
ネットで検索すると、実は最近の比較言語学の
分野ではこれと全く同じ論理で「世界祖語」なる
全人類共通の言語のルーツが存在するって説が
わりと真剣に論じられたりしてるらしい。
(例えばコチラのHPとか)

とは言え、言葉が文化として世界に伝搬したって
話だけなら、とりたてて驚くネタでもないのだが、
さらに進めると、実は人間の脳にはあらかじめ
「言語のモト」みたいなモノがプログラムとして
組み込まれてるって主張まであったりする。

     

「認知科学界のポップスター」スティーブン・ピンカーの
『言語を生み出す本能』はその筆頭。
人間が言葉を話すのは先天的な「本能」であり、
しかも「文法遺伝子」なるモノまで存在するって
のがこの本の主張。

大多数の人間は、自分が言葉をしゃべるのは
物心つかないうちから少しずつ学習していった
結果だと思っているだろう。
でも実はそれこそが大きな勘違いだというのだ。

ピンカーの主張は言語学者ノーム・チョムスキー
の「生成文法理論」をベースに展開される。

    

最近じゃ「マイケル・ムーアをさらに過激にした
政治思想を持つ変人」だとしか思われてない
チョムスキーだけど、その功績を一言で言うと
「当たり前過ぎて誰も気付かなかったコト」に
初めて気付いたってコトだ。

確かに人間は言葉を学習するコトで習得する。
「パパ」「ママ」「ブーブー」に始まって、いろんな
単語を記憶していく。でも、そっから先がどっか
オカシイとチョムスキーは気付いたのだ。

自分の子供の頃を思い出してみよう。
「まず文章の最初に主語を言って…」なんて
いちいち親から文法の構造まで教わったかぁ?
教わったとしても「そのおかげで喋れるように
なりました」って奴は多分いないだろう。

小学校の国語の授業でも主語やら述語やらの
「文法」を教え始めるのは小学校2〜3年ぐらい
だと思うのだが、「これが主語」「これが述語」
とかって教わる前に、既に「文法の構造や概念」
だけは何となくわかってなかったか?

よくよく考えてみりゃ、「文法の概念」ってのは
子供が理解するには複雑過ぎる代物だ。
なのにまるでお湯さえかければカップラーメンが
出来上がるように、周りの大人の会話を聞いてる
だけで知らない間に言葉が使えるようになってる。

猿でも単語は幾つか覚えられるかも知れないけど
単語を並べて文章を作るのはとても無理だ。
要するに人間が言葉をしゃべるのは、単にそれを
学習したからだけじゃなく、先天的に文法を理解
する能力が備わってるからじゃねーのか?

言い換えると、パソコンを買うと最初からOSソフト
とか「オフィス」が入ってるみたいに、人間の脳には
ハナっから「全人類共通の文法ルール」みてえな
モノがプログラミングされてるハズだってコトだ。

なぜなら、ある程度の年齢未満の子供ならば
日本人の子供もアメリカ人が育てりゃ英語を話すし、
モンゴル人が育てりゃモンゴル語を話すようになる。

「主語の次に来るのは動詞か?目的語か?」みてえな
言語のローカルルールは民族によって多少は違うけど
ちょっとした順番と単語だけインプットすりゃ、どこの国
の言語にも互換性が効く「普遍文法」が脳のどこかに
あるハズだとチョムスキーは考えたのだ。

で、そこから論を進めるのが、チョムスキーの弟子筋に
当たる同じMIT(マサチューセッツ工科大学)の教授で
認知科学者のピンカーだ。

「言葉を話す」のが「人間の先天的な本能」とすれば
そこには遺伝子が関わっていることになる。
つまり「文法遺伝子」なるモノが存在するというのだ。
もっとも『言語を生み出す本能』を書いた時点では、
まだその存在は確認されてなかったのだが…

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

  • 作者: 斉藤 隆央, マット・リドレー
  • 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
  • 発売日: 2004/04/28
  • メディア: 単行本

さっき読み終えたこの本によると、既に2001年に
『文法遺伝子』の1つが特定されたらしい。
「SLI」と呼ばれる、遺伝性の特異性言語障害の患者
の家系を調べた所、第七染色体の通称「FoxP2遺伝子」
が壊れると言語が身につかなくなるコトが判明したそーな。

とりあえずこれだけで「文法遺伝子」の全てが解明できる
ワケでもないのだが、もし本当に〝神様〟がいるとしたら
それはそれで偉大だと思う。

進化論的には「突然変異と自然淘汰がもたらした偶然」で
人間は言葉を話すようになったと説明されるのだろうけど、
単なるデタラメの積み重ねだけでそれが可能になるって
のも「神業」としか思えないという意味で。

要するに俺が考えてる「神様」ってのは、この自然や宇宙
そのものであって、少なくとも聖書に書かれてるような、
『バベルの塔』を建てたってだけで人間ごときに激怒して
懲らしめようとするような、「心の狭ーい人間みたいな奴」
なんかじゃないと言いたいのだ。

…と、ここまで書いてみて新たなパラドックスに突き当たる。
この結論だと俺は、還元論的言説を振りかざして、聖書を
基盤とするキリスト教の教義を頭から否定する「無神論者」
ってコトにされちまう。

聖書を読んで考えれば考えるほど、俺は救われないのだ。
聖書の中の〝神様〟は言葉を通じなくするコトで人々を
混乱に陥れたけど、そんな〝神様〟の言葉そのものが
俺を混乱させている。


11月の「バカは死ね」&宣伝告知もろもろ [Archives]

    

月刊誌『CIRCUS』連載中
『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』

今月は「ホワイトバンドバカ」とタテ縞模様の「阪神バカ」。
まとめて同じ服装で群れたがる「ユニフォームバカ」ってコトで。

補足すると俺は「ユニフォーム」が嫌いだ。
例えばセーラー服見て「萌え〜!!」とか言ってる
野郎どもの神経には全く共感できない。

いわゆるコスプレってのは、わかりやすい記号なのだが
制服着てるヤツを見ると「あっ、売り物だ」と思っちまう。
なぜなら俺の実家はユニフォームのメーカーだからだ。

俺自身、幼稚園から高校まで制服を着てきたけど
どーにも抵抗感は拭えなかった。
制服だと体型もごまかせなけりゃ、遊びにも行けねえ。
囚人の足カセにハメられる鉄球みてえに思ってた。

要するにユニフォームとは画一化された服装によって
個性を埋没させ、権威に服従させる装置なのだ。
周囲から妙だと言われる俺の服装も、根本的には
そんな制服への抵抗感の裏返しな気がする。

      

確か心理学者スタンレー・ミルグラムも『服従の心理』
人間は記章、制服、肩書とかの抽象的地位に反応するみたいな
コト言ってた気がする。

    

ちなみにミルグラムってのは権威と服従に関する面白い心理実験
通称『アイヒマン実験』で有名だが、この他にも…

スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法

スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法

  • 作者: ダンカン ワッツ
  • 出版社/メーカー: 阪急コミュニケーションズ
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 単行本


最近ちょっと話題の『スモールワールドネットワーク』の基本概念
になってる『6次の隔たり理論』を最初に提唱した人物でもある。

簡単に言うと「誰でも知り合いの知り合いを6人辿っていけば
地球上の全ての人間と間接的に知り合いになれる」ってヤツ。
これをチェーンメールで実験して検証したりしてるのだ。
もっとも、検証するまでもなく統計学的に当たり前なんだけど。
興味のある向きにはこちらもオススメ。

それと全く脈絡がないのだが、ついでにもう1つ宣伝。

    

中学の同期に銀座博品館のドラ息子がいるのだが
コマツの親分さんの公演をプロデュースするんだそーな。

『6次の隔たり理論』で言うと、俺と小松政夫は知り合い1人
を介すればネットワーク的にはつながるってコトらしい。
個人的にはベンジャミン伊東とのカラミも見たいところだが
こちらも興味ある向きはぜひ。


「小泉チルドレン」に余計なお世話 [Archives]

中学・高校・大学と同じ道を辿った
クラスメートの結婚パーティーに出席する。

会場に入った俺に
「テレビで見たぞ」と声をかけたのはこの男。

ケータイの性能が悪くてかなりピンボケだが
以前紹介した大学のクラスメート木原誠二
東大法学部→財務省に入省→英国留学という華麗な経歴を
引っ提げて先の衆議院選挙に東京20区から出馬。
当選を果たした今、話題の「小泉チルドレン」である。

同じ東大生でも片や「小泉チルドレン」。
片や授業中にベチャクチャしゃべってて
「うるさいから外出ろ」と教授に追い出された
東大入っても小学生並みのチルドレンだった俺。

ヤツと話をしたのは大学2年の時以来。
15年前、最後にしたのは語学の授業で
隣に座った木原と交わしたこんな会話。

「なぁ木原…俺さ、今のお前見てスゲエ気になるコト
 があんだよ。でもコレ言うと、お前が怒るかも…」
「言いたいコトがあるならさっさと言えよ」
「いや…でも怒るんじゃねーかな…」
「だから言えって」
「いや、やっぱり俺には…」

このやりとりを3〜4回しつこく繰り返したところで
俺はそれを言うことにした。
「いや実は…お前、鼻毛1本伸びてるぞ」

たまたま木原の鼻毛が1本だけ飛び出してたのだ。
敢えてしつこいやりとりを繰り返したのは周りの人間
の注目を集める為の前フリ。

いつもは爽やかな笑顔で女の子にも人気の木原を
からかってみたくなり、とりあえず方程式通り周囲の
笑いは取れたのだが、それが木原と交わした最後
の会話になってしまった…

そんなこんなで2度と話すコトもないと思ってた木原
と再会。そして押しも押されぬ「小泉チルドレン」と
なった今もヤツの語り口は爽やかそのものだった。
もちろんこの日は鼻毛も出ていない。

 

でもって、この際だから勝ち馬には乗っておこうかと
ガッチリ握手とかしてみたりもしたのだが…
やっぱりガラにもねえコトするとロクなコトがねえ。

親切にも上の写真を撮ってくれたのは
木原のフィアンセだった。
しかも精悍なルックスと華麗な経歴を武器に
「政界のホープ」として将来を嘱望される男の
婚約者とあって、まさに周りの男どもが羨むほど
の美人である。

しばし木原と彼女と3人で和やかに歓談。
だが、とりあえず会話を弾ませようと
「あれですよね?テレビで当確が出た時
 隣でバンザイしてましたよね?
 その時からキレイな人だと思ってたんですよ」

…と言ったところ、一瞬会話が止まった。

    

当確が出た時の報道でバンザイをしてた
この白い服の女性を俺は思い出したのだが
実はフィアンセはこの女性とは別人だった。

そしてその直後、なぜかフィアンセは横を向き
別の場所へと立ち去ってしまったのだ。
どこか彼女の表情は不機嫌そうに見えた。
何となく気まずい空気を実感する。

「あっ、いや…俺、よく顔を見間違えるもんで
 また間違えちまったかな…?」
取り繕ってはみたものの、「しくじった感」が
俺の脳裏をよぎる。

そー言えば3〜4年前にもコレと似た体験が。
相手は局のエライ人で結婚したばかり。
飲み屋に入ると、その人が女性と同席してた。
「キレイな奥さんですねえ!」

この時もてっきりカミさんだと思ってた女が
カミさんじゃなくて血の気が引く思いをした。
何の因果か?俺はこーゆー場面で決まってしくじる。
しかもそんな時は必ずと言っていいほどウワっ面
なホメ言葉を並べ上げてる時なのだ。

人間は誰しも、社会を生きていく上で
心にもない言葉を並び上げるコトがあるものだ。
でも俺がそれをやって他人にすり寄るとしくじるし
ウソくさいどころか、ロクな結果を招かない。
これは俺が「社会不適応者」である証なのか?

そして今回も俺は「やってしまった」のか?
いや…よくよく考えれば俺は単に思い過ごしを
してたに過ぎないのではないか?
きっとそう…そうだ…いや、そうに違いない!

すぐ横でバンザイしてた女性がいたからと言って
その女性を勝手に元カノと思いこみ、会話の中で
実際は存在などしなかった「気まずい空気」を
察したつもりになってる俺こそ勘違いも甚だしい!

そもそも今時、この程度のコトで不機嫌になる女性
はいない!あの行動は彼女なりのジョークなのだ!
ましてやそれで関係が不安定になる間柄ならば
婚約などするハズがないではないか!

大体政治家を目指すような正義感あふれる男は
女性関係だって清廉潔白に決まってるではないか!
そう!断罪されるべくは「妄想」に取り憑かれた俺だ!
ヤツのような爽やかな男に限って断じてそんなコト
はあり得ない!

とゆーワケで、勝手な独り相撲で「政界のホープ」
と目される大学時代の親友に周囲のあらぬ誤解を
抱かせるような物言いをした非礼はいくら詫びても
詫び足りないと自己に猛省を促すばかりの俺だが
とりあえず、このいかんともしがたい「罪悪感」を
払拭するには木原にさっさと結婚してもらうに限る。

将来を嘱望される超エリート政治家なんだから
浮いた噂が出ねえよう一刻も早く身を固めやがれ!
しかも美人のフィアンセだ。

まさに非の打ち所のないベストカップル!
ホント二人には幸せにもらいたいと願ってやまない!
いろいろふざけたコト書いてきたけど、これだけは
ウソじゃない!ホント心の底からそう思っているのだ…

…とかなんとか美辞麗句並べてみたところで
やっぱり俺が書くとどこまでもウソくさい。
こーして俺は書けば書くほどドツボにハマってく…


「意識」というビョーキ [Archives]

体調が崩れると読むモノも自然と陰鬱になってくる。

    

フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』を読む。

今から140年前に書かれたこの本の中で
ドストエフスキーは現代社会を予言していた。
主人公は社会との関係を拒絶して地下室に
閉じこもった男。つまり「引きこもり」だ。

この主人公、ともかく「自意識過剰」だ。
独りごとつぶやいてる時でさえ、
ツッコまれるのを極端に恐れるかのように
延々「ひとりツッコミ」を繰り返す。

…と書いてはみたが
これだけでアタマの悪い読者に理解できるだろうか?
いや、そもそも俺がドストエフスキーを取り上げるコト自体
インテリぶって知識をひけらかしてるだけなのか?
それ以前に過剰な自意識というモノを『地下室の手記』
の主人公風に説明するこの行為自体が
「五流の売文業者の出来損ないのパロディーじゃねーか」
と聡明な読者から嘲笑されたりはしないだろうか?
よく考えれば、当ブログの読者はドストエフスキーなど当然
読んでるハズで説明するのも愚かしいのではないか…

…みたいな感じの堂々巡り。
ドストエフスキーはそんな主人公にこう言わせている。
「誓って言うが、諸君、あまりに意識し過ぎるのは、病気である。
 正真正銘の完全な病気である」

このブッ壊れた感じ。
強迫観念に囚われて身動きができなくなった感じが
「引きこもり」と呼ばれる現象の本質を捉えてるのだ。

確かに自分を過剰に意識するのは病気だ。
でも、病的なのは単に意識が過剰だからだけなのか?

    

デカルトが「我思う故に我あり」と言い放ってから
「意識するコト」こそ人間と他の動物を区別する
「人間の人間たる所以」みたいになってるけど、
そもそも人間だけが持つこの「意識」ってモノが
マトモに検証された試しがあったか? 

人間は起きてる時は常に何かを意識してるかの
ように思われてるけど、ホントにそーなのか?

例えば信号が青に変わって車のアクセルを踏む。
「大体これぐらい右足に力入れよっかな」なんて
いちいち「意識」してるか?

要するに「意識が人間を支配してる」なんて
実は「幻想」じゃねーかと主張するのがこの本。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

  • 作者: トール ノーレットランダーシュ
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本

デンマークの科学ジャーナリスト
トール・ノーレットランダージュ(舌噛みそうな名前だ)の
『ユーザー・イリュージョン/意識という幻想』だ。
(ちなみに物理学や心理学はもとより、いろんなジャンル
の情報が出てくるこの本、前のエントリーで指摘があった
「情報理論」の説明もこの本からの引用だけど、1991年
の著書だから情報が古かったのか?)

細かいトコはともかく、この本の主張を一言で言うと
「意識は0.5秒遅れでやってくる」ってことだ。

車の運転で説明すると
子供が車の前に飛び出して急ブレーキをかけたとする。
我々はそれを「意識的に」やったと思ってる。
でも実はそーじゃない。

①まず「無意識」に肉体が反応する。
②その反応が0.5秒遅れで「意識」に伝えられる。
③ところが脳は、時間の繰り上げ処理を行って
 その反応が「意識」によってなされたかのように
 後付けで「錯覚」させる。

…ってのがこの本の主張なのだ。

もちろん「会社の経営方針を考える」とか
「来年3月に向けて受験勉強する」なんてのは
「意識」的に行われるモノだ。

でも瞬時に判断が要求される、日常生活でごくごく
何の気無しにやってる行動の殆どは「無意識的な」
反応であって、それを常に「意識」してると思いこむ
こと自体が「幻想」だとゆーのだ。

それだけじゃない。「意識」が人間の行動に悪影響
をもたらすケースもある。典型がコレ。

    

試合中は本能的にボールに反応して華麗なシュートを
決められるサッカー選手が、何でまたより簡単なハズの
PK戦でゴールを思いっ切りハズしたりするんだ?
そりゃ「意識」が行動を邪魔するからだろ?

「本能的感覚」とか「動物的感覚」って言葉があるけど
いざって時の行動だと「無意識」の処理能力の方が
「意識」した判断よりも正しかったりするのだ。
それが俗に言う「直感」ってヤツなのか?

他にも身の回りを見てると、できる奴とそーじゃねえ奴
の違いって「決断力」だったりする。
「意識」ばっかりしてウジウジしてるから失敗するのだ。
「プレッシャーがかかった」とか「力が発揮できなかった」
とかも全てこの「意識」の賜物。

つまり「意識」は人間の決断力や行動力を鈍らせる。
「引きこもり」とか「ニート」とか呼ばれてる連中が
「行動」を起こせないのも結局コレなのだ。
そーすると「意識」が強まり、さらに行動が起こせない。
さらに「直感」が鈍る。まったくもって悪循環だ。

ドストエフスキーが『地下室の手記』で言いたかったのは
結局こーゆーコトだったのか?

じゃあ悪循環に陥ったらどーすればいいのか?
そこで思い出したのはThe Smithsの〝Ask〟の一節。

The World Won't Listen

The World Won't Listen

  • アーティスト: The Smiths
  • 出版社/メーカー: Warner
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: CD

〝Shyness Is Nice And Shyness Can Stop You
From Doing All The Things In Life You'd like to〟
(繊細な感性もそりゃ結構だけど、その繊細さのせいで
 人生でやりたいコトが何もできなくなってるんだよ)

皮肉屋モリッシーにしちゃナイーブな奴らの味方だな。
でもそれじゃ「引きこもり」は救われねえと思う。
俺的にはラッパーのKanye Westがニューズウィークの
インタビューで語ってた言葉がストレートでしっくり来る。

      

    「引っ込み思案はバカ同然」

マトモに長々と話をしても聞いちゃくれねえ。
かと言ってこう言っちまうとまた物議を醸す。
一体どーすりゃいいんだ?

こんなことダラダラ考えてる時点で
俺もまた「自意識過剰」に陥ってるのかも知れない。


Too Much Information [Archives]

最近、仕事で使わなかったボツネタ。

    

「上から読んでも下から読んでも山本山」
の『山本山』をテープに吹き込んで逆回転
で再生したらどー聞こえるのか?
『ヤマモトヤマ』の逆で『マヤトモマヤ』
になるのか?

実は理論上は『アマヨトママイ』になる。

発音した単語を逆回転した時に聞こえるのは
元の単語のローマ字綴りを逆さにした単語だ。
だから『山本山』〝YAMAMOTOYAMA〟の
逆=〝AMAYOTOMAMAY〟ってワケだ。

この手のどーでもいい情報を視聴者の皆様は
知的好奇心を満たす知識のように思うらしく
テレビギョーカイでは「役に立たない雑学」
的どーでもいい知識=情報がここ数年ずっと
幅を効かせてる。

そんなどーでもいい情報がテレビに氾濫する
一方で「情報化社会」と呼ばれるこのご時世。
より多く情報を手にする者がより有利な立場
に立てると思われがちなのではないか?

「学歴社会」ってのも、実は学歴を持つ者が
持たざる者にはより多くの知識(=情報)を
持ってるように見えてるからこそ成立してる
んじゃねーか?

だって脳ミソにコンプレックス抱えてるバカ
ほど、ワケ知り顔で受け売りの情報をまんま
ひけらかしたり、ことさら難解な専門用語を
ひけらかすコトで、知性の無さをごまかそう
とやっきになったりするだろ?

実際「1人の人間が持つ情報量」ってのは
目に見えない。そしてそもそも疑問なのだが
果たして「知性」=「情報量」なのだろうか?

まず仮に「知性」=「情報量」とするならば
「知性」を決める最も重要な要素は「記憶力」
になるのではないか?

しかし、本屋で「驚異の記憶術」みてえな本
を吐いて捨てるほど見かけるのだが、それを
読んでるリーマンは冴えねえ奴ばっかだし、
著書自体もアヤシゲな奴ばっか。

恐らく「記憶力」を重視する時点で根本から
間違ってるのだ。「ハードディスクの容量が
最もデカいパソコンを持ってる人間こそ一番
仕事ができる人間」と主張するのと同じだし。

ガムシャラに「情報」を蓄積さえすりゃいい
ってもんじゃない。そこで考える必要がある
のは「情報とは一体何なのか?」ってコトだ。

俺の場合だと、テレビの仕事でよく聞くのは
「もう少し情報性ないの?」みたいなセリフ。
この場合の「情報」ってのは
「他人に余り知られていない情報」だ。

    

例えば「ウマの仲間にはシマシマ模様の
シマウマというモノがいる」は「情報」と
見なされない。当然誰でも知ってるからだ。

「ではそのシマウマはなぜ乗馬や競馬には
使われないのか?それは気性が荒く、家畜
には適さないからだ」ぐらいの話になると、
まぁ「情報」として成立しうる(ちなみに
コレも最近使わなかったボツネタだ)。

でもこの定義だと「情報」を客観的には
捉えられない。なぜならそこに「情報」を
受け取る側の解釈という主観的な問題が
生じるからだ。

「シマシマ模様のウマがいる」でも、
地球に初めて飛来して生命を観察する
宇宙人にとっては充分有益な「情報」に
なりうるのかもしれないのだから。

だとすると「情報」を客観的に捉えるには
一体どーすればいいのか?
ここで登場するのが「情報理論」だ。

クソテレビマンは「ネタ(=情報)がねえ」
としきりに文句を言うが、情報理論は全く
もってアプローチが逆だ。
「この世界は情報が溢れかえっている」
ことを前提とするのだ。

情報理論においては情報の最小単位
が「ビット」という単位で定義される。
「1ビット」は2進法で「0」か「1」かの
信号(=情報)を処理するコンピューターが
「0」か「1」を1回読み取る能力のこと。

言い換えれば、1つの質問に対して
「イエス」か「ノー」のどちらかを判断する
だけの情報量が「1ビット」なのだ。

確かに電話、ラジオ、そしてテレビも現代
のあらゆるメディアは、文字や音声、画像
といった「情報」を全て「0」か「1」かの
電気信号に一旦読み替えるコトによって
「情報」を伝達する。

これで「情報の量」が測れるワケだ。ちなみに…
電話が1秒間に伝達できる情報量は4000ビット
高性能ラジオの情報量は毎秒1万6000ビット
テレビの情報量は毎秒400万ビットとなる。

つまりテレビは「0」と「1」の信号に変換すると
1秒間に400万回も「イエス」と「ノー」の判別
を行ってるワケだ。ものスゴイ情報量だ。

だとすると、これまでナニゲなく見ていた
身の回りも全く違ったカタチで見えてくる。

    

『マトリックス』のオープニングじゃねえけど
例えば俺が今、目の前にしてるパソコンも
スクリーンに表示された文字や図形や色や
明暗を「0」か「1」の信号に変換してビット
に換算したら膨大な情報量だ。
(イメージが湧かねえ奴はモーフィアスに
緑のクスリもらってさっさと退場しろ)

しかもパソコンを操作してるその最中も
俺の耳は換気扇の回る音やら外で騒ぐ
子供の声を聞き取っている。
皮膚は何かに触れている感覚や空気の
流れ、その温度までも感じとっている。
舌はタバコの味を感知している。

要するに我々が知覚しうるこの世界とは
膨大な情報量で溢れかえった、混沌の
極みにある「無秩序の世界」だってこと
から情報理論はスタートするのだ。

「情報が氾濫する現代社会」だとかよく
聞くけど、実際何のことはねえ。
昔っから人間は常日頃「情報の洪水」に
さらされてきたのだ。

そしてそんな身の回りに溢れる「情報」
の殆どは実は「ノイズ」なのだ。

だって今、この瞬間も、まさに言葉通り
の意味の「ノイズ」として耳には換気扇
の音が入ってきているけど、それもまた
「情報」の1つ。そんな膨大な「情報」が
毎秒毎秒押し寄せてきているのだ。

では一方、人間はその膨大な「情報」を
処理できず手をこまねいているのか?
決してそんなコトはない。

優劣はあるが、人間は多かれ少なかれ
「ノイズで溢れかえってる無秩序」から
必要なノイズだけを即座に選び取って
「秩序」を再構築してる。

しかも特に意識もせず、膨大なノイズの
中から必要な情報だけ拾い上げられる
能力の高いコンピューターを生まれつき
持ってることになるのだ。

さらに言うと、ごく一部の限られた人間
にしか情報が手に入らなかった昔なら
いざ知らず、現代じゃあgoogleで検索
すれば、知りたい情報の大半は誰でも
平等に手に入れられる時代だ。

そう考えると、実は「知性」ってのは単に
「情報」を蓄積するコトなんかじゃなくて
「膨大な情報の中から不必要なノイズ
をさっさと捨てる」情報処理能力ってコト
じゃねーのか?

でもって何が言いたかったのかというと
立ち戻って「雑学ブーム」だ。

今のテレビ見てると、実は「雑学」って
タレントがワケ知り顔でノイズみてえな
「情報」をタレ流すだけで何となく知性
をアピールできる小道具にしか過ぎない
と思うのだ。

冴えねえリーマンが飲み屋で酒の肴に
使ったりキャバ嬢を喜ばせたりする程度
の雑学ばっかり仕入れてどーすんだ?

なんだか小児用の飲みグスリみてえに
糖分でコーティングされたキャッチーな
知識のカケラだけ楽しめりゃあホントに
それでいいのか?

例えば、さっきのシマウマのネタだけど
俺が最初にこの情報を仕入れたのは、
確か生物学者ジャレド・ダイアモンドの
この本だったと思う。

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

  • 作者: ジャレド ダイアモンド
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2000/09
  • メディア: 単行本

人類史における家畜についての話題で
「何十万種といるあまたの動物の中で
実は家畜に適しているのはほんの数種
しかない」という論旨の導入に出てきた
のだと記憶してる。

「シマウマの雑学」は単なる導入だけど
俺はこれを足がかりにこの本の全体の
論旨を今も覚えてる。

小児用飲みグスリみてえにキャッチー
な「雑学」はあくまでも入口だ。
そこから体系だった情報を知ることが
大事なのであって、雑学それだけを
仕入れて喜んでるバヤイじゃない。

だけどバカには体系だった知識を真剣
に学ぶ気などさらさらない。少々知的
な感じに味付けされた雑学を知ること
で「何か学んだ気分」に浸りたいだけ。

これもある意味で、断片化した情報の
カケラしか受け付けず、物事を体系化
して価値観を構築していけないという
「情報処理能力」の欠如だと思うのだ。

しかも一方でバカは、自分のアタマの
中味が他人より優れてると思いたがる
から「脳力」やら「右脳」やら耳障り
のいい曖昧なキーワードに飛びつく。

「IQ」やら「PQ」やら最近じゃただの
「なぞなぞ」でアタマの中味が測れる
と思ってやがる。

こうしてテレビは物事のウワッ面しか
撫でないバカを量産している。

「情報の洪水」に押し流されて思考が
停止して、ムダな情報に飛びつくバカ
ばっかりだから、俺も左ウチワで仕事
がやっていける。

そしてこの記事もボツネタ使い回して
一丁上がり。俺は笑いが止まらない。
「情報化社会」ってそーゆーコトなのだ。

【追記】

トラックバックに「情報理論」の説明の
部分に関する指摘があった。
「情報理論」における情報量の単位は
「ビット」から「シャノン」に改変されてる
のだそーな。
情報理論の確立者クロード・シャノンの
名前をとった単位名なのかな?

詳しい説明は下記を参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/quintia/20051021#1129867079

「どーでもいい雑学」について書いた
「どーでもいい駄文」からこーゆー指摘
で予想外に知識が深まるコトもある。
なるヘソSpecial Thanks!


10月の「バカは死ね」 [Archives]

    

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『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』
今月のテーマは「韓流」も「嫌韓流」も本質は同じ。
両方まとめて「ヨン様バカ」。

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