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聖書再解釈②バベルの塔と「文法遺伝子」 [Archives]

しばらくブログに「放置プレイ」をカマしてたら
随分昔のエントリーにこんなトラックバックが。

    

てなワケで今回は長らくほったらかしにしてた
『聖書再解釈』の続き。

    

旧約聖書の『創世記』で「ノアの箱船」の次に出てくる
有名なエピソードと言えば「バベルの塔」の話。

    

ガキの頃に『バビル2世』を見てた同世代の為に
補足しとくと、バベルの塔が「砂の嵐に囲まれてる」
ってたぐいの記述は聖書には一切ない。
あと「怪鳥ロプロス」と「ポセイドン」と「ロデム」も
全く出て来なかった。

実のところ、旧約聖書に書いてあるのはコレだけ。

洪水を生き残ったノアの子孫は定住して町を作り、
その中央に天まで届くような高い塔を作ろうと考えた。
仲間が散り散りにならないようにする為だ。

ところが、塔がどんどん高くなっていくのを見て
〝神様〟は激怒する。
「彼らがみな、一つの民、一つのことばで
 このようなことをしはじめたのなら、
 今や彼らがしようと思うことでとどめられることはない」

そこで〝神様〟は人間たちの言葉が互いに通じない
ようにする。意思疎通が取れなくなって現場は大混乱。
塔の建設は中止となり、人々は散り散りになっていった。
だから今、世界中の民族がさまざまな言葉をしゃべる
のは、この『バベルの塔』のせいなんだとさ。

とりあえず大昔の聖書の言い伝えをまとめてみると…
①当初、人類は〝1つの言語〟を持っていた
②それがやがていろんな言語に別れた
③おかげで人類はまとまらず、争いが絶えない
…ってコトになる。俺が注目したいのは上の2つ。

「今、世界中の人間がしゃべってるいろんな言語には
 かつて共通の言語があった」と聖書は書いている。

もしかすると、コレは文明化する以前の人類の進化の
プロセスをおとぎ話のカタチで物語った「歴史的史実」
なのかも知れないのだ。

確かに世界の言語には幾つもの共通点がある。
脱線になるが、関連して思い出したのがこの話。

蕎麦ときしめん

蕎麦ときしめん

  • 作者: 清水 義範
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1989/10
  • メディア: 文庫

清水義範のこの本に「序文」って短編がある。
言語学者が「英語のルーツは日本語」だとする
トンデモない学説を発表する話だ。その根拠が…

英語の「Name」は「Namae(名前)」とそっくり。
同じく「Boy」は「Boya(坊や)」とそっくり。
この発音面での類似は英語のルーツが日本語
であるコトの証拠だと主張し始めるのだ。

読んだ当時は笑ったが、ふとこの話を思い出して
ネットで検索すると、実は最近の比較言語学の
分野ではこれと全く同じ論理で「世界祖語」なる
全人類共通の言語のルーツが存在するって説が
わりと真剣に論じられたりしてるらしい。
(例えばコチラのHPとか)

とは言え、言葉が文化として世界に伝搬したって
話だけなら、とりたてて驚くネタでもないのだが、
さらに進めると、実は人間の脳にはあらかじめ
「言語のモト」みたいなモノがプログラムとして
組み込まれてるって主張まであったりする。

     

「認知科学界のポップスター」スティーブン・ピンカーの
『言語を生み出す本能』はその筆頭。
人間が言葉を話すのは先天的な「本能」であり、
しかも「文法遺伝子」なるモノまで存在するって
のがこの本の主張。

大多数の人間は、自分が言葉をしゃべるのは
物心つかないうちから少しずつ学習していった
結果だと思っているだろう。
でも実はそれこそが大きな勘違いだというのだ。

ピンカーの主張は言語学者ノーム・チョムスキー
の「生成文法理論」をベースに展開される。

    

最近じゃ「マイケル・ムーアをさらに過激にした
政治思想を持つ変人」だとしか思われてない
チョムスキーだけど、その功績を一言で言うと
「当たり前過ぎて誰も気付かなかったコト」に
初めて気付いたってコトだ。

確かに人間は言葉を学習するコトで習得する。
「パパ」「ママ」「ブーブー」に始まって、いろんな
単語を記憶していく。でも、そっから先がどっか
オカシイとチョムスキーは気付いたのだ。

自分の子供の頃を思い出してみよう。
「まず文章の最初に主語を言って…」なんて
いちいち親から文法の構造まで教わったかぁ?
教わったとしても「そのおかげで喋れるように
なりました」って奴は多分いないだろう。

小学校の国語の授業でも主語やら述語やらの
「文法」を教え始めるのは小学校2〜3年ぐらい
だと思うのだが、「これが主語」「これが述語」
とかって教わる前に、既に「文法の構造や概念」
だけは何となくわかってなかったか?

よくよく考えてみりゃ、「文法の概念」ってのは
子供が理解するには複雑過ぎる代物だ。
なのにまるでお湯さえかければカップラーメンが
出来上がるように、周りの大人の会話を聞いてる
だけで知らない間に言葉が使えるようになってる。

猿でも単語は幾つか覚えられるかも知れないけど
単語を並べて文章を作るのはとても無理だ。
要するに人間が言葉をしゃべるのは、単にそれを
学習したからだけじゃなく、先天的に文法を理解
する能力が備わってるからじゃねーのか?

言い換えると、パソコンを買うと最初からOSソフト
とか「オフィス」が入ってるみたいに、人間の脳には
ハナっから「全人類共通の文法ルール」みてえな
モノがプログラミングされてるハズだってコトだ。

なぜなら、ある程度の年齢未満の子供ならば
日本人の子供もアメリカ人が育てりゃ英語を話すし、
モンゴル人が育てりゃモンゴル語を話すようになる。

「主語の次に来るのは動詞か?目的語か?」みてえな
言語のローカルルールは民族によって多少は違うけど
ちょっとした順番と単語だけインプットすりゃ、どこの国
の言語にも互換性が効く「普遍文法」が脳のどこかに
あるハズだとチョムスキーは考えたのだ。

で、そこから論を進めるのが、チョムスキーの弟子筋に
当たる同じMIT(マサチューセッツ工科大学)の教授で
認知科学者のピンカーだ。

「言葉を話す」のが「人間の先天的な本能」とすれば
そこには遺伝子が関わっていることになる。
つまり「文法遺伝子」なるモノが存在するというのだ。
もっとも『言語を生み出す本能』を書いた時点では、
まだその存在は確認されてなかったのだが…

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

  • 作者: 斉藤 隆央, マット・リドレー
  • 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
  • 発売日: 2004/04/28
  • メディア: 単行本

さっき読み終えたこの本によると、既に2001年に
『文法遺伝子』の1つが特定されたらしい。
「SLI」と呼ばれる、遺伝性の特異性言語障害の患者
の家系を調べた所、第七染色体の通称「FoxP2遺伝子」
が壊れると言語が身につかなくなるコトが判明したそーな。

とりあえずこれだけで「文法遺伝子」の全てが解明できる
ワケでもないのだが、もし本当に〝神様〟がいるとしたら
それはそれで偉大だと思う。

進化論的には「突然変異と自然淘汰がもたらした偶然」で
人間は言葉を話すようになったと説明されるのだろうけど、
単なるデタラメの積み重ねだけでそれが可能になるって
のも「神業」としか思えないという意味で。

要するに俺が考えてる「神様」ってのは、この自然や宇宙
そのものであって、少なくとも聖書に書かれてるような、
『バベルの塔』を建てたってだけで人間ごときに激怒して
懲らしめようとするような、「心の狭ーい人間みたいな奴」
なんかじゃないと言いたいのだ。

…と、ここまで書いてみて新たなパラドックスに突き当たる。
この結論だと俺は、還元論的言説を振りかざして、聖書を
基盤とするキリスト教の教義を頭から否定する「無神論者」
ってコトにされちまう。

聖書を読んで考えれば考えるほど、俺は救われないのだ。
聖書の中の〝神様〟は言葉を通じなくするコトで人々を
混乱に陥れたけど、そんな〝神様〟の言葉そのものが
俺を混乱させている。


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