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「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」 [Archives]

最近の受験生は大変だ。
志望校の過去問も満足に解けやしねえ。

    

かつて俺も世話になった赤本とかの入試問題集に
国語の文章問題が掲載できなくなってきてる。
「著作権」を盾に訴えられるケースが増えたからだ。

  

訴えてるのはなだいなだとか平田オリザとか。
顔も貧相だが、やることもみみっちい。

殆どの受験生はコイツらの本なんて普段なら
読みてえとも思わねえだろう。その受験生に
文章の一部を読んでもらえるだけでも絶好の
プロモーションだし、創作活動にも何ら支障は
ないだけの収入は手にしてるハズだ。

にもかかわらずだ。
ここへ来てさらに金をフンだくろうとしやがる。
創作活動そっちのけで金儲けにご執心だ。

一体奴らは何を「生み出した」って言うんだ?
テメエの文章は全くのゼロから独創的な発想
だけで作り出された代物だとでも言うのか?

多かれ少なかれ、作家は過去に読んだ本や
他で仕入れたアイデアのエッセンスをパクって
文章をひねり出してる。自慢げに作り出したと
豪語するその文章も、語調や言い回しは確実に
先人の影響が滲み出る。

奴らの顔はスネ夫みてえなのに、言ってるコトは
何だかジャイアンみてえだ。

    

「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」

コレを言い出したら、全くもってキリがない。
例えば、もし中国が「中華文明が輩出した
漢字の1語1語に著作権を有する」なんて
言い出したら、なだいなだや平田オリザは
中国に素直に金を払うんだろうか?

結局の所、この違和感は「著作権」ってモノが
どこまで認められるのかって本質的な問題が
クレーゾーンのまま、目に見えてわかりやすい
権利ばかりが声高に主張されるコトに起因する。

だいたい世の中で「新たに生み出された」と
称するモノは、実は全て「サンプリング」だ。

テレビの仕事してると、特にそれを実感する。
たまに「俺の企画がパクられた」とか何とか
文句言ってる同業者がいるのだが、よくよく
聞いてみると、ホントに独創的だったなんて
アイデアは一度たりともあった試しがない。

どれもこれも採用されなかった別の企画書
で見たり、俺も考えたコトのある企画。
1人の人間のアイデアなんて所詮は出来合
のアイデアをいわば「順列組み合わせ」的に
掛け合わせてアレンジしただけ。

「自分が初めて考えた」なんて独りよがりに
思い込んでるだけなのだ。
じゃあ一体どこで線引きをすりゃいいのか?

まず大学の過去問に関して言えば、文章に
アンダーラインが1本でも引いてあったり、
一部が(  )にさえなってれば、それだけで
充分「オリジナル」と認めていいと俺は思う。

だって最近は音楽だって「サンプリング」が
増える一方じゃねーか。
TVドラマも映画もマンガの実写ばっか。
出版界のベストセラーも、例えばコレ。

声に出して読みたい日本語

声に出して読みたい日本語

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2001/09/12
  • メディア: 単行本

斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』
なんて昔の小説とかまんま書き写しただけ。
それで印税は斎藤孝に入るんだぜ?
それはそれでまぁクレバーだとは思うけど。

もちろん、物書きにも収入源は必要だから
著作権を全く認めないワケじゃない。
でもここまで過剰に現代人の著作権ばかり
保護するのは狂ってる。法的にも穴だらけで
あちこち矛盾ばかりのデタラメだ。

現実に時代の趨勢はお手軽なサンプリング
で作られた代物を支持してる。
そして実はそれは今も昔もさして変わらない。

現実に逆らうより、法制度そのものを変えて
サンプリングしやすくする方がよりナチュラル
で無理がないと言いたいのだ。

そもそも全ての芸術は時代と共に移ろう。
時代を超えて支持され続けるなんて代物は
ごくごく一握りで、大半は急激に陳腐化する。

問題は「刺身に1年の賞味期限を認める」
ようなもんで、急速に腐り果ててく著作物を
過剰に擁護し過ぎる点にあるんじゃねーか?

そこで! かつて大学の経済学部で会計学を
かじった元公認会計士志望崩れの俺的には
著作権に「減価償却」的な観念をより厳密に
適用すべきだと提言してみたい。

例えば、工場が製品を作る為に1000万円
をつぎ込んで機械を買ったとする。
でもその機械の価値は、時が経つにつれて
少しずつ減っていく。使ってくうちに傷んだり
能率が悪くなったりするからだ。

ところが帳簿上は、そのままだと大問題だ。
工場に金を貸している銀行は、万が一倒産
したら、工場の資産である機械を売り払って
金に換えて借金を取り返したいと考えてる。

ところが1000万円の価値があるとばっかり
思ってたその機械が実は古くなって100万円
の価値しかなかったとしたら、いざその工場
が倒産した時、大損を被るハメになる。

それだと余りにも不条理だってコトで、資産の
実態を帳簿に反映する為の会計処理方法が
「減価償却」なのだ。

減価償却には「定額法」と「定率法」がある。
例えば「定額法」なら、5年経つと1000万円
の機械の価値が10%=100万円になっちまう
として、毎年20%ずつ価値が目減りしていくと
計算する。

この場合だと1000万円×0.9×0.2=180万円。
毎年180万円ずつ価値が下がってく。

つまり当初1000万円の価値があった機械が…
購入1年後には…820万円
購入2年後には…640万円
購入3年後には…460万円
購入4年後には…280万円
5年目以降だと…100万円
となる。最終的に売りモノにもならなかったら
廃棄されて資産価値ゼロってコトになる。

著作権者やそれで利益を得てる業者にとっての
著作権は、「利益を生む資産」という意味では
上に説明した工場の機械と同じだ。
会計的にも同様の減価償却的処理がなされて
しかるべきだと思うのだ。

しかし日本の法律は基本的に資産としての
著作権の期限を「作者の死後50年間」だと
していて、「減価償却」的な陳腐化の計算も
されない。

しかもそれって、先人から受けついだ人類の
共有財産をちょっとばかしアレンジしただけ。

本来はある期間が過ぎれば、誰もが自由に
使って構わねえレベルの「先人のパクリ」
のクセして、やけに長い間、独占的に保護
され過ぎだと思うのは俺だけか?

それは「目に見えない利権」を守りたいだけ
のエゴイズムであって、欲の掻き過ぎだろ?
だいたい何もしちゃいねえ作者の子供や孫
までがヌクヌクとその恩恵にあずかる権利
が一体どこにあるって言うんだ?

実際、著作物の殆どはせいぜい10年すれば
陳腐化するのが実情。そこで考えるのだが
この際、思い切って著作権から得られる収入
も「減価償却」的処理を適用したらどーだ?

何と言うか、「俺が肺に吸い込んだ酸素は
死ぬまで俺のモノ」って、実はその酸素は
とっくに体外に排出されてるハズなのに、
それでもなお言い張ってるみてえな横暴さ
に虫酸が走るから、そうしてやりてえのだ。

芸能人の肖像権に関しても同様なのだが
過剰な権利擁護は声高なバカを利するだけ。

俺はそれを自覚してるが故に、声を大にして
叫びたい。全ての表現者は「法律を盾にした
ドロボー」であり、その自覚なく自意識ばかり
肥大してるバカどもは保護に値しないのだと。


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