SSブログ

7月の「バカは死ね」 [Archives]

今月のCIRCUS『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』

テーマは遺産争いで話題のあの兄弟や
死に損ないのオヤジを野球場に引っ張り出すバカ息子など
血に躍り、躍らされる“七光りセレブバカ”。

中味は買って読みやがれっ!!


今週の「バカは死ね」/so-net blog [Archives]

so-net blogユーザーってのは
揃いも揃ってメデタイお人よしなのか?
じゃなきゃ単なる従順な家畜なのか?

7/1障害復旧のお知らせ

so-net blogが18時間サーバーを止めて
メインテナンスした挙げ句、トラブル発生。
さらに丸一日以上、閲覧さえできなかった。

いくら何でも異常だ。
so-netはテメエの業務がインターネットの
インフラ整備だって自覚が無さ過ぎる。

インフラは問題なく稼働するのが前提だ。
例えば、もし日本の発電所が北朝鮮みたいに
四六時中停電を起こしたり、供給する電圧が
不安定だったら、日本経済はどーなる?

マイクロチップの製造工程とかミクロン単位だぜ?
「停電が終わったからスイッチオン」なんて単純な
問題じゃない。その時点でラインにあった加工途中
の商品はほとんど台無しだ。

「異常なく当たり前に稼働する」コトを強いるのが
過酷過ぎるとは、俺は全く思わない。

    

「普段は当たり前に走ってる電車ですけど
 たまに脱線して死者が出たりするのでご注意を」
ってJR西日本が開き直ったら誰だって怒るだろ?

電力会社であれガス会社であれ鉄道会社であれ
インフラを業務とする企業は異常なく当たり前に
稼働するのが当然の責務なのだ。
その代わりに巨額の利益が得られるのだから。

では、なぜso-net blogにはその自覚がないのか?
問題の元凶はソニーグループの悪しき企業文化を
引きずってるコトにあるのではないのか?

ソニーグループは製品のデザインのポップさや
軽量化には秀でてるからイメージがいいけど
昔っからウォークマンは壊れやすかったし
実はその商品はモロくて壊れやすい。

なのにクレームへの対応はどーかというと
初期のプレステ2がDVDの再生不良で
問題になった時もSCEが「そーゆー仕様です」
と言い張ったように修繕やメンテナンスの応対が
極めて悪いコトでも知られている。

多分、製品がテレビとかオーディオとかゲームとか
日常生活に特に不可欠ではない個人ユーザー向け
の製品を中心に作ってきた企業だから、その反面、
地味だけど毎日異常なく稼働するインフラへの意識
が薄いのだ。

言い換えればソニーグループは堅実さをバカにして
見てくれの良さばかり追求してきた。
いつもイメージ先行。
地味だけど必要不可欠なモノは作ってこなかった。

「ソニー」のブランドが日本企業の象徴なのも
単なる偶然じゃない気がする。
どーでもいい雰囲気モノで、いざと言う時役立たず。
時代の変化に対応できない。今の日本を象徴する
“平和ボケ”症候群とよく見りゃ似てる。

    

そしてそんなグループ自体の体質が今回のブログの
ダラダラ引き延ばしメンテにつながってんじゃねーか?
こんなコトばっかしてるからソニーグループ丸ごと低迷
するんだろ。CEOをガイジンにしたぐらいで変わるとか
考えてたらそれこそ大間違い。問題の根は深そうだ。

てなワケで、そろそろこのブログもso-netからの
「移籍」を視野に入れにゃいかんかな?


今週の「バカは死ね」/クレジットカード会社の偽善 [Archives]

クレジットカードの個人情報流出が社会問題になってる。

俺が使ってるのはVISAのゴールドなんだが
アメリカじゃVISAやMASTERCARD4000万枚分の
個人情報が流出しちまってるらしい。

それじゃなくても最近はスキミング犯罪が巧妙化してる。
カバンに入れて持ち歩いてるカードのバーコード情報なんか
機械で簡単に読み取れるとかニュースでもよくやってる。

個人の情報管理がますます難しくなってるこのご時世。
にもかかわらずだ。
池袋のサンシャイン通りのHMVでCDを買おうとすると
毎度毎度フザケた応対をされて無性に腹が立つ。

レジに行くと店員が、この電卓みてえな機械の端末に
何の承諾もなしに俺のカードを突き刺して
「暗証番号を押して下さい」とかヌカシやがる。

カードに「ICチップ」とやらがついてるからだ。

銀行やコンビニのATMで金を下ろす時だって
後ろのヤツが暗証番号覗いてねえか不安になるのに
HMVの店頭ごときで、なぜそんな危険を冒さにゃならんのだ?

それ以前に俺はクレジットカードの暗証番号を使ったコトがない。
本来クレジットカードで暗証番号が必要なのは現金を引き出す時
ぐらいだと思うが、現金は銀行のキャッシュカードで引き出してる。
カード会社から金を借りなきゃならねえほど金に困ったコトはない。
だから暗証番号自体を忘れちまってる。

なのに、電卓みてえな端末を突き出す店員は何の断りもなく
「暗証番号を押せ」と迫る。多分、押したら間違える。
店員は俺を犯罪者のような軽蔑の眼差しで見下すに違いない。

毎度毎度ゴールドカードでCDを10枚とか20枚とか大人買い
してる俺が、なぜこんな目に遭わにゃならんのだ?

そんなワケでいつも店頭で文句を言うのだが
怪訝な顔の店員は決まり文句のマニュアルでもあるかのように
「喜んでらっしゃるお客様も多いのですが…」とかホザきやがる。
ホントにそうかぁ?

「またペトロはくだらねえコトで目くじら立ててやがる」と思われる
かも知れないが、どーにも納得がいかんのだ。

今でこそゴールドカードを持ってる俺だが
最初クレジットカードを申請した時は審査の時点でハネられた。
「大手企業の社員じゃないから信用がない」って理由で。

まあ確かに「credit」を辞書で引けば「信用」って意味だし
銀行がどこの馬の骨とも知らねえ俺を信用するハズがない。

東大出て普通に就職してりゃそんなコトはなかったんだろーけど
それが社会のルールだから仕方ねえ。
だから「蛇の道」なりの方法でようやく三井住友銀行の信頼を得て
VISAカードを手にしたワケだ。

でもって今の俺は世間一般の信用はともかく、経済力に関しては
銀行から「信用を金で買った」クレジットカードユーザーだ。
手持ちの現金が無くても、カードを出せば誰にも疑われるコトなく
サイン一発で好きなモノが買える。それこそが利便性を重視して
「信用取引」を成立させてる資本主義のルールなのだから。

そしてこの信用を保つ為に、俺はカード会社に会費を払ってる。
そんな俺に「暗証番号を押せ」と迫るのは失礼にもほどがある上に
客を危険にさらす可能性があるコトを、HMVは考えてねーのか?
あの電卓みてえな端末に入力した暗証番号がどこにも漏れねえ
って保証は一体どこにあるんだ?

それにHMVだって、現金販売だけよりも客の間口が広くなって
売上が増えるからクレジットカードを使えるようにしてるハズだ。
銀行の信用を得てクレジットカードを使う客を疑うような対応を
しやがるなら、カード取引なんか辞めりゃいいじゃねーか。
その代わり、確実に売上は減るハズだ。

テメエの売上は増やしたいクセして、カード利用客を疑った上に
情報流出やカード犯罪の危険にまでさらしやがる。
サインする時に電話番号まで書かせようとする販売店もそうだが
「神様」であるハズのお客様をどこまでもナメた行為だ。

しかし、問題の元凶は消費者への対応の基本を忘れちまってる
のもさることながら、販売店側がカード会社の主張を全く鵜呑み
にしちまってることだ。

「ICチップ導入でサイン不要!より安全!より便利になりました!」
なんてクレジットカード会社は主張して、ICチップの普及運動を
進めてるのだが、便利でもなけりゃ安全でもない。
カードユーザーのコトを考えてるワケでもない。
それは単なる建前。全くもってデタラメだ。

要するにカード会社はカード犯罪で損害が出た販売店に払う
賠償用の保険料を減らして、利益率を上げたいだけなのだ。

別に企業のコスト削減対策に異を唱えるつもりはない。
問題は、やってるコトが詐欺同然ってことだ。

だってクレジットカード会社はカードユーザーに「信用」を売る
のが業務だ。その為にカードユーザーから会費を徴収して
提携先の販売店からは売上の一部をピンハネして儲けてる。

でもクレジットカード会社は「信用」を客に販売した以上
商取引に伴うリスクとコストは受け持たなきゃならない。
そこがGIVE & TAKEだからこそ経済的に成立してるのだ。

例えば損害保険で、決められた保険料を払ってきたのに
「採算合わなくなりそうから来月から保険料上げます」なんて
突然損保会社から言われたら、誰だって怒るだろ?

「信用」を売るクレジットカード会社の業務は保険会社に近い。
カード犯罪への対策とかってのは本来クレジットカード会社が
取り組むべき問題だ。カード犯罪の激増で利益が減少しようが
どーなろうが、俺らカードユーザーは知ったこっちゃない。

「手持ちの金が無くても買い物できる利便性がある」って
システムだから、俺らは会費を払ってカードを使ってるのだし
だいたい悪いのはカード犯罪者どもだ。
クレジットカード会社は犯罪者にタカられるリスクも承知の上で
巨額の利益を上げているのだ。

それなのに会費を払って「信用を買ってる」カードユーザーに
暗証番号の提示を迫るようなシステムの普及を目指すのは
カードユーザーから金だけふんだくって負担を転嫁する行為
に他ならない。詐欺と言わずして何と言えばいいのだ?

しかも最近は指紋や瞳孔や静脈なんかでカードユーザーが
本人かどうか識別できるバイオメトリクス(生体認証システム)
なんてのもある。コレ使えばカード犯罪のほとんどは未然に
防げるんじゃねーのか?

なのにこうした最新セキュリティシステムの導入は遅々として
進まない。それでいて今さらカードユーザーには暗証番号を
求めるなんて、時代遅れも甚だしい。

結局のところ、カード犯罪にせよ個人情報の情報流出にせよ
新技術の導入がコストの上昇を招くからって理由でクレジット
カード会社がアグラを掻いた怠慢の結果じゃねーのか?

ちなみに銀行のキャッシュカードも、最近は東京三菱銀行が
この「生体認証システム」をようやく導入したぐらいで
俺のキャッシュカードは未だにボロボロの「さくら銀行」だぜ?
新しいカード作ろうとすると、金取るらしいし。

どーも金の流れを牛耳るカード会社や銀行って金融企業は
扱ってる商品が「目に見えない」のをいいコトに、思いっきり
消費者をナメくさってるキライがある。

それでいて本来テメエが負うべきリスクやコストは払わずに
「便利」とか「安全」とかデタラメ並び立てやがる。偽善だ。
そして負担だけは消費者に強いる。

でもHMVの店先で文句言う度、決まって俺は変人扱いだ。
後ろで並んでる客まで、まるで悪質なクレーマーみてえに
俺を見てやがる。トチ狂ってるのはどっちなんだろ?
考えれば考えるほど、全てがオカシク見えてくる。


I'm Coming Out [Archives]

ずっと隠していた事がある。
誰にも言わずにいたけど、勇気を出して書いてみる。

俺には「もって生まれた欠陥」がある。
多分、大多数の人間には理解してもらえないだろう。
そしてそれが為に、俺は不幸な人生を生きている。

実は俺は…ずっと「アイドル」になりたかった。
そう、堂本光一みたいな。
それが「運命」だと信じて疑わなかった。
ステージで若い女の子たちの黄色い歓声を受ける
自分の姿こそが、心から望んでいた未来だった。

でも俺には一生、その夢は叶わない。
ジャニーズ事務所に入るには頭蓋骨がイカツ過ぎる…
頭頂部は20代前半で薄くなった…
歌を歌っても甲高い声が他人を逆撫でする…
ダンスを踊りたくても梅雨時はヘルニアで腰が痛む…

俺の心は「アイドル」になる事を宿命と感じてるのに
もって生まれた体がそうなってない。
「心」と「体」が一致してないから心底苦しんでるのに
そんな俺の悩みを誰もわかってくれない。
一体なぜ俺は「アイドル」にはなれないんだろう…

…みたいな悩みをもし俺が持っていたとしてだな、
その悩みをさらに延々と書き殴り続けたら
しまいにゃ「フザけるな」とハリ倒される事だろう。

でも最近の社会的トピックでどーしてもこれと似た
違和感を感じてしまうモノがある。

「性同一性障害」ってそんな深刻な問題かぁ?

何年か前に『金八先生』で上戸彩が「性同一性障害者」の役を
演じて以来、既にかなり認知されてる「病気」だ。
現実に医学的にも公的にも「遺伝性の障害」だとされている。
当事者じゃなきゃわからない精神的苦痛もあるのだろう。

でもメディアでこの問題がことさらシリアスに取り上げられる度に
「何かがおかしい」と俺は感じてしまう。

多分そう感じる理由は、ニュースやドキュメンタリーでの
この問題の取り上げ方に原因がある。
この手の番組は大抵が性同一性障害者のカミングアウト
を全面に押し出して「遺伝性の病気」だとしきりに訴える。
「病気だから差別はいけません」みたいな。
その紋切り型の論調がどーにも鼻持ちならないのだ。

「病気です」「遺伝です」「生まれついてなんです」
今、持ち出されると最も異論を言いづらいキーワードだ。
ツラそうなのはその様子から充分に察せられるんだけど
テレビ画面から深刻な顔で訴えられれば訴えられるほど
建前的に「深刻な問題で言葉もありません」と思いつつ
一方で「だから何だと言うのだ?」って感情がわき上がる。

いつもそこから先の答えがない。悩みの根幹は「病気」
じゃなくて「うまく行かない人生」にあるんじゃねーか?
率直に言うと、ホントは「病気」は「うまく行かない人生」
のスリ換え的言い訳じゃねーか?と思えてしまうのだ。

例えば俺は鬱になった事がある。
鬱ってのも、見た目は他人にわからない。
他にも頭痛や腰痛とか見た目じゃわからん病気は多い。
それもなりやすい体質となりにくい体質があったりする。
遺伝的な側面もあるって事だ。

先天的かも知れねえし、後天的かも知れねえ。
でも病気が「先天的」だったら、大手を振って歩けるのか?
裏返して言えば、例えば「後天的」に同性愛とかを楽しむ
人間なんかとは一緒にしちゃいけませんって事なのか?

俺の知り合いには何人かゲイもいる。
「gay」=「陽気な、はなやかな」って辞書の定義通りで
まったくもって屈託のないハッピーな奴らだ。
冗談で「このオカマ野郎!」と言うと
お約束で「オカマの何が悪いのよっ!」と笑わせる。

子供の頃は悩んだかも知れねえし、イジメに会った事も
あるかも知れねえけど、その面影は伺い知れない。
あの「開き直り」的なしたたかさやテンションにゃ勝てねえ。
俺にはその嗜好が先天的か後天的かはわからねーけど
そんな事、別にどーでもいいと思うのだ。

性同一性障害と同性愛を誤解してると言われるかも
知れねえけど、違いより類似点を俺は重視したい。
①遺伝的要素のあるセクシャリティーの問題で
②社会の偏見にさらされるマイノリティーだけど
③どっちも五体満足で、日常生活に重大な支障はない
違いうんぬんを言い出すのはナイーブ過ぎねーか?

目に見えてわかる身障者だって、幸せに暮らしてる
ケースは多々ある。それに比べりゃ性同一性障害者
が取れる選択肢は多い。

隠そうと思えば隠し通す戦略も取れる。
思い切りカミングアウトして開き直る手もある。
戸籍の性別の変更とかも可能になってきてる。
したけりゃ性転換手術だってすりゃあいい。
日本が無理なら海外でもできる事だし。

そもそも性的なマイノリティーって「弱者の論理」で
「社会の偏見」とかにナーバスに反応したりするけど
人類史上、今の時代ほど「多様化した性」が大らかに
認められてる社会は無いんじゃねーか?
周りはそれほど気にしちゃいない。他人の視線が
気になって仕方ないとしたら自意識過剰じゃねーか?

逆に「遺伝」を全面に押し出して運命を呪えれば
気が晴れるのかな?問題が解決するのかな?
遺伝的に若くして命を奪われると決まってるとか
もっと酷な条件を背負ってる人間がいるって事を
考えた事ねえのかな?

やれ「遺伝」「遺伝」と口にするテレビでありがちな
性同一性障害のカミングアウトに耳を傾けてると
どーにもそんなツッコミがしたくなる。
「遺伝子」が重要なら、医学的には性同一性障害と
認定されうる遺伝子の持ち主の中にも、楽しい人生
を謳歌してる人間だってそれ相当いると思うのだ。

なのにこの手の番組はそっちは殆ど取り上げない。
なんだか有無を言わせない説教臭さがある。
一番「病的」なのはその報道スタンスだ。

結局、何かを考えてるフリして実は何も考えてない
ありがちなメディアの論調が社会の意識を偽善的
でウソくさい方向に歪めてるのだ。

ジャーナリズムうんぬんと正義感を振りかざしながら
実際のところは無意識に「面白い見せ物」を視聴者
に晒して嬉々としてる現実をクソジャーナリストども
が全く認識してない事こそが真の「病巣」なのだ。

それが「病気の事は言わないようにしましょう」的な
風潮につながって、言うべき事も言えなくなる。
メディアはバカだからそうやってテメエの首を絞める。
社会の為にもならなきゃ、悩んでる性同一性障害者
の為にもならない。

とどのつまり、テレビで深刻そうにカミングアウトする
性同一性障害の人たちって、悩みは解決しない上に
メディアでさらし者にされる「二重の苦痛の犠牲者」
なんだと思う。そこがまた、見ててイタイのだ。

そしてかくゆー俺もこんな考えを「カミングアウト」
しちまうもんだから、また白い眼で見られたりする。
でも仕方ねーじゃん?
俺だってそーゆー事言わずにいられない衝動が
抑えきれない「病んだ人間」なんだから。そして
それが「アタマのおかしい」俺の特権でもあるのだ。


聖書再解釈①エデンの園やノアの洪水はホントにあった?! [Archives]

多くの読者はお気づきと思うが、ここまで俺は再三にわたって
『聖書』に出てくる神様はやる事なす事デタラメだとあげつらってきた。

    

問題はギネスブックで「世界最大のベストセラー」と認定される
この聖書の記述を「ファンダメンタリスト(原理主義者)」どもが
神の絶対的なお言葉だと「文字通り」解釈しちまう事にある。

たとえば「神様が7日でこの世界を作った」って事になってるから
アメリカじゃ授業で「進化論」がまともに教えられなかったりもする
って事は前にも説明した。
「聖書なんて所詮は昔話なんだからアホかよ!」みたいな。

にもかかわらずだ。ここへ来て
「エデンの園やノアの洪水は“ホント”にあった!」
…と、敢えて『ムー』の読者みたいなコトを言ってみる。

もっとも仮説の域は出ないのだが、こともあろうに
聖書を一字一句忠実に信じたがる原理主義者どもが
毛嫌いする「進化論」的観点からそれを主張する本がある。

農業は人類の原罪である

農業は人類の原罪である

  • 作者: コリン・タッジ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/10/17
  • メディア: 単行本

コリン・ダッジの『農業は人類の原罪である』
(Colin Tudge"Neanderthal, Bandits And Farmers")

『原罪』って言葉が既に日本人には耳慣れない。
問題は大半の人間がまともに聖書を読んでないコトにある。
そんなワケで『創世記』をかいつまんで説明する。

①まず神様が7日間でこの世を作った。
 正確には6日で天と地とか動植物作って7日目がoff。
 これが「日曜日」の由来だ。

②次にエデンの園に最初の人類「アダムとイブ」を作る。

    

 この楽園で2人は働きもせずノンキに暮らしてたのだが
 神様に「食うな」と言われてた木の実をイブが食っちまう。
 これがいわゆる「人間の原罪」ってヤツだ。

 ちなみに聖書の記述は「木の実」で、「リンゴ」だとは
 一言も書いてない。裸の2人が恥ずかしくなって体を
 隠したのが「イチジクの葉」だとは書いてあるけど。

 で、神様はこれに激怒。
 「オマエらは顔に汗して働いて食糧を手に入れるのだ!」
 と2人を『エデンの園』から追い出す。

③追い出されたアダムとイブはまず子供を2人作る。
 長男のカインは農業をはじめて
 次男のアベルは羊飼いになる。

 ところが…兄弟2人が神様に捧げ物をするコトになって
 カインは農作物、アベルは羊を捧げたのだが
 神様は羊だけ気に入って農作物は見向きもしなかった。
 兄カインは腹が立って弟アベルを殺す。
 人類史上最初の「殺人事件」だ。

 その後、アダムはもう1人子供作って「930年生きた」
 ってコトになってる。その子供セツが「807年生きて」
 …とか延々系譜が書き連ねられて、やっとノアが登場。

    

④この頃になると人間も相当増えてるのだが
 ノア以外はどいつもこいつも堕落した生活を送ってた。
 だから神はノア以外は洪水で皆殺しにするコトにする。
 これが『ノアの箱船』の伝説だ。

これを「文字通り」信じるのはどう見てもアホだ。
だってこの手の神話は語り部が文字の無い時代
から口述で数千年間も受けついできたモノだから
語り伝えられるうちにストーリーの順番が変わったり
内容が極度に誇張されたりする。

例えば「アダムは930年生きた」ってなってるけど
古代の部族ってのは、今の歌舞伎役者みたいに
部族の長の名前を継ぐコトが名誉だったハズだ。

恐らく20〜30代ぐらい「アダム」が襲名された後
次に何か革新的なコトをやった人間が尊敬されて
そいつの名前が襲名されたんだろう。

でも一方でこれが全くの「作り話」だったとしたら
なぜ昔の人間は必死に暗記までしてこんな話を
何千年も伝えてきたのか?
もしかしたらエピソードの幾つかは歴史的事実に
基づいてたりするんじゃねーか?

そこで進化論的見地から最新の考古学の知識
など交えて人類創世記の歴史を検証したのが
『農業が人類の原罪である』だ。

でもって、なぜ農業が人類の『原罪』なのか?

考古学的に、農業を始めた頃の人類の骨は
腰が変形し、爪先や膝も曲がって関節炎を
起こしてるという。
狩猟採取で暮らしてた人類にはない特徴だ。

それまで必要な時だけ獲物を狩ったり木の実を取って
「楽園で働かずノンキに暮らしてた」狩猟採取民がなぜ
「オマエらは顔に汗して働いて食糧を手に入れるのだ!」
とばかりに、突然過酷な農作業を強いられたのか?

多分そこに、昔の人間が「神の天罰だ」と震え上がった
ような大変化があったに違いねえってワケだ。
じゃあその大変化って一体何なんだ?

現在判ってる考古学的証拠から見ると、人類が農業を
始めたのはだいたい1万年前だとされてる。
実はこれと並行してとんでもない大変化が起きてる。
「氷河期の終わり」だ。

デイ・アフター・トゥモロー

デイ・アフター・トゥモロー

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/03/16
  • メディア: DVD

この映画みてえな氷河期が終わったって言うと
「あったかくなってよかったね」みたいに思いがち。

でも実は氷河期の頃は、場所によっては今よりも
海面が200メートルも低かったコトが判ってる。
とてつもない量の水が氷河の形で陸地に残ってた。
氷河期が終わってこれが溶け出したらどうなるか?

氷河期末期の人類は比較的温暖な場所
(多分氷河から離れた低地)を見つけて
木の実を取ったり狩りをしながらノンキに
暮らしてた。そこに突然洪水が襲ってきたのだ。

中には運良く逃げ延びた人間もいたんだろう。
多分避難先で「ここも洪水でヤバイかも!」
とか親切心で教えたりもしたんだろうけど
その土地の人間はまさかそれが現実になる
とは思いも寄らない。

かくしてその場所でも洪水が起こると
生き延びたヤツは多分こう思う。
「神の予言に聞く耳を持たなかった天罰だ!」
これが洪水と予言者ノアの伝説の由来だ。

そー言えば同じメソポタミア文明のギルガメッシュ
叙事詩なんかにも洪水伝説は記されてる。
プラトンが書いた『アトランティス大陸』やら、
『ムー大陸』の水没なんてのも洪水って歴史的
事実が形を変えて伝わったものなんじゃねーの?

こう考えると、失われた「エデンの園」ってのは
多分今は海中に没してるペルシャ湾一帯だ。
かつてはそこで狩りをしたり木の実を取ったりして
ノンキに暮らしてた人間は高地に逃げ延びて
「顔に汗して」農作業をやらなきゃならなくなった。
腰が曲がったり、ひどい関節痛に悩まされるほど。
これが「楽園追放と原罪」の由来ってとこかな?

ちなみに作者はさらに論を進めて
「農民のカインが羊飼いの弟アベルを殺した」
って伝説を、農業を始めた「クロマニヨン人」が
狩猟採取しかできない「ネアンデルタール人」を
絶滅させたって歴史的事実の名残じゃねーか
なんて話もしてるのだが、その辺りは考古学的
裏付けは取れず定かじゃないみたい。

ともあれ人類の祖先は農業をやるようになって
文明の発展につながるワケだけど、ある意味、
作者がこの人類の農耕文明の始まりを「原罪」
だと指摘したのは鋭い。

農業は狩猟採取と違って確実かつ大量に食糧
が手に入るから、人口が爆発的に増える。
だからさらに農地を拡大して大規模な農業生産
を続けていかなきゃならなくなる。

こうして人類はウィルスみたいに増えていって
歯止めが利かなくなっちまった。
そしてそれが今の資本主義経済まで続いてる。
多分人類は滅びるまで拡大を続けるんだろう。

こんな感じで改めて再解釈されると
聖書もそれなりに面白い。
古代の文献をそのまんな「文字通り」解釈する
からバカな誤解が絶えないだけなのだ。

というコトで以後もぼちぼち、この聖書再解釈
シリーズを続けていこうかなと。
ちなみに次回は『バベルの塔』の伝説を予定
しているが、あくまでも予定は未定。


nice!(0)  コメント(0) 

6月の「バカは死ね」 [Archives]

そー言やぁすっかり忘れてた。

    

先月からこの月刊誌『CIRCUS』(毎月5日発売らしい)に
『ペトロ三木の放射能コラム/バカは死ね』を連載してる。
営利で書いてる以上は宣伝もしとかにゃいかん。
先月からやっときゃよかった。

ちなみに今月のテーマは
“世界進出”と称して日本で商売する「世界進出系バカ」。
内容は買って読みやがれ!


エンターテインメントとしての「死刑」 [Archives]

WARNING

当エントリーはXXX-Rated。人間の本質について語る為
一部刺激的映像が含まれています。見たくねえ奴は見るな!

  ×  ×  ×  ×  ×

数日前Discovery Channelで『グラディエーターの真実』って番組を見た。

    

映画でもおなじみ、武器を手にした戦士が競技場で命をかけて闘う
ローマ時代の「剣闘士」の歴史検証ドキュメンタリーだ。

コレ見てたら、サッカーのW杯予選とか余計アホらしく思えてきた。
何が「絶対負けられない闘い」だ。球蹴りなんかどーでもいいだろ。
古代ローマじゃ殺し合いが「エンターテインメント」として成立してたのだ。

これが今できりゃ、K-1なんか目じゃねえ。
TVで生中継したら確実に高視聴率取るキラーコンテンツになるぞ?

そんな「人でなし」な考えを脳裏に巡らせていたら
頭の中で何の脈絡もなく存在していた物事が突如1つに結びついた。

    

殺し合いが無理なら「死刑」をエンターテインメントにすりゃいいじゃん?
そーすりゃいろんな問題が解決できると思えてきてしまったのだ。

事実、中国とかじゃ未だに公開処刑が行われてる。

    

Billie Holidayの"Strange Fruit"を思い出す。

奇妙な果実

奇妙な果実

  • アーティスト: ビリー・ホリデイ, ソニー・ホワイト, エディ・ヘイウッド, ジョン・ウィリアムス(ベーシスト), ジョン・シモンズ, エド・ショーネシー, シドニー・カトレット, フランク・ニュートン, ドク・チータム, ヴィック・ディッケンソン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
  • 発売日: 1999/12/01
  • メディア: CD

もっとも、ぶら下がってるのは南部のポプラの木じゃねーけどさ。

大半の人間は野蛮だと拒否反応を起こすかも知れねーけど
よく見ると後ろに見物客が映り込んでる。楽しみに観に来たんだろう。
この残酷さが「エンターテインメント」なのは否定できないと思うのだ。

考えてみりゃギリシャ悲劇からシェイクスピア、現代のスターウォーズに
至るまで、名作とされる物語には一人も死者が出てこない方が珍しい。
聖書の中さえ、神様がバンバン人間を殺してる。

それほどまでに人の死とは「ドラマティックな装置」なのであって、
俺らはそれを何らためらうコトなく楽しんでる。

「フィクション」はよくて「現実」はダメとかって勝手な線引きじゃねーか?
現実に今も毎日、世界中で多くの人間が殺されてる。

    

ホントに人が死ぬのが悲しけりゃ、イラクとか中東とかチェチェンとか
世界中の紛争に目を向けて、解決へのアクションを起こしてるハズだ。
でも平和で豊かな国に暮らしてる俺らの大半はその事実に目を背ける。

なんでなんだろ?
自分が殺されたり、死んだりする立場になるコトを考えたくないからだ。
自分らの楽しい暮らしを生理的な嫌悪感で邪魔されたくないからだ。
それが人間の本性なのだ。「倫理」を振りかざすのは建前に過ぎない。

つまり先進国の人間は利己的な動機から「死」に対して強迫観念とも
言える「潔癖性」になってるのだ。だから「死」を闇から闇へ葬り去る。
非公開で行われる、現行の日本の死刑制度がまさにこれだ。

死刑制度の存在する根拠を考えてみる。多分主な理由はこの2つだ。
①死刑制度の存在が殺人事件の歯止めにつながる
②遺族の悲しみを思えば、命で命を償うべき
だが、現行の死刑制度のあり方はこの2つの根拠と矛盾している。

①密室非公開での死刑執行は、社会へのアピール効果が殆どない

「イベント」になってないから、国民の殆どは気づきもしない。
人殺しをやらかしそうな犯罪者予備軍は輪をかけて意識しない。
ホントに殺人の抑止が目的なら、死刑は公開で行うべきだ。

②日本では被害者の遺族は死刑執行にも立ち会えない

アメリカには被害者の遺族に死刑執行の立ち会いを許可する州もある。
なのに日本では刑の執行が被害者の遺族に事前通知すらされない。
本当に報復感情を満たす為なら、怒りが収まらない遺族を死刑執行に
立ち会わせるサービスがあって当然だ。
「スイッチオン」ぐらいさせてくれてもいいハズだろ?
なのに「人を殺せるのは国だけ」とばかりに政府が勝手に殺っちまう。

まあ国ってのは、戦争になったら外人を平気で殺すのはもちろん、
好きなだけ国民を徴収して死にに行かせる特権も持ってるワケで
仕方ねえと言やぁ仕方がねえのだが、かなり自信過剰なもんだから
時々罪もない人間を「冤罪」で死刑にしちまったりもする。

死刑を非公開で目立たなくしてるのも、多分その辺の「後ろめたさ」
や論理的脆弱さをうやむやにするコトがホントの理由なのだ。

でも今や「国の情報公開」が声高に叫ばれるこのご時世。
どーせやるなら、死刑も公開にした方がいい。

そーすりゃ遺族の報復感情もよりやわらぐんだろ?

テレビで生中継でもすりゃチンケな保険金殺人や連続猟奇殺人を
しでかしそうなサイコパスどもの犯罪抑止効果も強くなるんだろ?

国は絶対的な正当性で加害者を死刑にしなきゃならなくなるから
司法判断も引き締まるし「冤罪」も減るだろ?

何よりバカな国民は娯楽に飢えてる。
政府は政府で不祥事を繰り返し、国民の怒りを買ってる。
怒りの矛先をそらしつつ、国民の溜飲を下げ、国民の一体感まで
この上なく高められる絶好の「エンターテインメント」だ。

中には反対する人間も出るだろう。
でも、その中から「死」についての意識を高める奴も増えるから、
世界各地の紛争で死ぬ人間なんかも減るんじゃねーのかな?

さらにここで、もう1つひらめいた!「希少動物の保護」だ!
たとえばチンパンジーと人間の遺伝子は98.4%共通だ。
類人猿は人間の「親戚」と言えるほど近縁の存在なのに
医学的臨床実験で数多くが殺されてる。

    

人間様が長生きする為に、罪もない猿たちが犠牲となって
今絶滅の危機にあるのだ。

だったら死刑囚を臨床実験の被験者にすりゃあいいじゃん?
その方がダイレクトに医学的効果が測定できるぞ?
しかも死刑囚の死が単なるムダな死に終わらない!

経済学的にもエコロジカルな希少資源の有効活用だ!
人類の幸福につながるから罪悪感も薄れて、国民はまったく
後ろめたさを感じずに「エンターテインメント」を楽しめる!

ついでに言うと、臨床実験ってのは時間がかかるから、
長時間視聴者の興味も引っ張れる。
正真正銘の「リアリティ系エンターテインメント」だ。
どれをとってもいいコトづくめ。究極の解決策じゃねーのか?

いやぁ〜俺って天才?それとも「バカは死ね」?
どうせバカはこれをまた「文字通り」に受け止めるんだろう。

こんな時はブルースでも聞くのが一番だ。
罪滅ぼしに自分に1曲捧げる。

Martin Scorsese Presents the Blues: Bessie Smith

Martin Scorsese Presents the Blues: Bessie Smith

  • アーティスト: Bessie Smith
  • 出版社/メーカー: Sony
  • 発売日: 2003/09/09
  • メディア: CD


Bessie Smithの”Send Me To The 'Lectric Chair”
痴話喧嘩で男を殺しちまった女が
「私を電気椅子に送って」って訴える曲だ。

まったく業の深さってのは、死ぬまで治らねえ。


Emotion Is Logical [Archives]

昨日、ある相手と口論になった。
突き詰めて話を聞いたら
「生理的にムカついた」らしい。

腑に落ちないので理由を尋ねると
「いちいち論理的な説明を求める
 その物言いが気に食わない」
とか言われて、余計に話がこじれた。

そして持ち出された次の一手が
「感情的なモノは説明しようがない」
でもホントにそーなのだろうか?

この主張には暗黙の前提がある。

    

デカルトが言うところの「心身二元論」だ。
①「肉体」と「精神」は別個の存在であり
②「霊魂」が精神を動かしているのだから
③「精神」の動きはいわば「神」の領域
だから感情は論理じゃ説明できないと棚上げにする。

確かに人間の感情には説明不能な部分がまだある。
でもだからって、このままでイイのかよ?!

俺は突き詰めれば「感情は論理的」だと思う。
人間の脳を「自然が作り出したコンピューター」
だと考えれば、大抵の事は説明可能だからだ。

最近はこうした考え方が医学や生物学、心理学の
研究者から提起された事で、「認知科学」という
新たなジャンルが生まれ、研究が進んでるのだが
俺が知る限り、多分この考え方の言い出しっぺは
この本だと思う。

スピノザの『エチカ』だ。

スピノザは「汎神論者」だ。
ものすごくおおざっぱに言うと…
①自然界のあらゆるモノは絶対神が作った!
②てゆーか自然そのもの、全てが神なのだ! 
③人間も自然の一部だから神の一部!
 だから神と人間は一体だ!

…と主張して“神様は絶対に間違いなんて
しないから自然界の全ての物事は起こるべく
して起こる運命にあるのだ!”みたいな
「決定論」を展開していく。

但し「神はいる」としつつ、マインドは数学者。
「神=自然の法則=論理的に説明できるモノ」
だってさんざん説明した上で
“神様が人間の為にこの世を作ったってのは
非論理的じゃねーか?
だったらなぜ暴風雨や地震で人が死んだり
するんだよ?”みたいなツッコミを入れる。

でもって「神=自然界で起きる全ての現象に
原因と結果はあっても目的はない」として、
“ユダヤ教やキリスト教の教義は大ウソだ”
と言外にほのめかす。

要するに神を都合良く棚上げして自然界の
全ての現象を論理的に説明しようとする
「唯物論者」であり、その意味で前回紹介
したドーキンスとも考え方がよく似てる。

で、そんなスピノザが書いた『エチカ』は
文章が「定理」と「証明」の掛け合いから
なる数学的体裁を取っていて、文末には
「Q.E.D.(証明終わり)」が連発される。

おかげでどーにも読みづらいのだが、
その中で面白いと思ったのはスピノザが
“人間の根本的な感情は3種類しかない”
と論理的に定義しようとする部分だ。

スピノザいわく1つ目の感情は「欲望」。
「自分を維持するのに有益なモノを求めよう
とする努力」って定義。食欲とか性欲がコレ
に入るんだろうか?

で、あと2つはと言うと「喜び」と「悲しみ」。
「喜怒哀楽」って言葉もあるのに、思い切り
2つだと断言しちまう。ここが斬新だ。

一見、かなり強引な割り切りに見えるけど
スピノザの主張は論理的でエレガントだ。

まずは「喜び」。
例えば、自分を好きになってくれる異性が
現れたとする。
「俺も意外と捨てたもんじゃねえなぁ!」
みたいに、自分が「大きく」感じられる。
この自分が「大きく」感じられるってコトが
「喜び」の正体だというのだ。
確かに欲しいモノを買ったり、うまいモノを
食うと、それまでは満たされなかった自分
が満たされて、自分が「大きく」思える。

逆に「悲しみ」ってのは、好きだった異性に
愛想尽かされたりして、
自分が思ってたより「小さく」感じられるって
コトだと定義される。
金が無くなったり、仕事で失敗してショボン
となるのも、自分が「小さく」思えるからだ。

さらにスピノザはその他のいろんな感情も
「喜び」と「悲しみ」、つまり自分がそれまで
と比べ「大きく」思えるか「小さく」思えるか
の差1つで次々と定義していく。

例えば「憎しみ」は…
「悲しみ」のベクトルが自分という「内側」
から他人という「外側」に向きが変わった
だけの変形バリエーションになる。
逆に「愛」は「喜び」のベクトルが同様に
外側向きになった変形バリエーションだ。

「恐怖」は…
“どうなるかハッキリわからないけど何か
悪い方向に転がりそうな気が”みたいな
「不確かな悲しみ」で、「希望」はその逆。

「ねたみ」は…
「他人の幸福を悲しんだり、他人の不幸
を喜ぶようにと人間を突き動かす憎しみ
(=悲しみの変形バリエーション)」で、
「同情」はその逆。

「自己満足」は…
“自分自身や自分の能力を観察してる時
に感じる喜び”で、逆が「謙遜(劣等感)」。
…とかいろいろ。

スピノザは300年以上前の人間だし
それが全て正しいワケじゃないけど
意外とこんな感じで整理してみると
大抵の人間の感情ってのは論理的に
説明可能じゃねーか?

要するに心の中にわき上がった怒り
や苛立ちは「霊魂」に操られた
肉体とは別物の精神の動きじゃない。
だから「感情的なモノは説明しよう
がない」ってのはおかしいと思う。

結局、腹立てたコトでアタマの回転が
鈍って、感情の「原因」と「結果」を
論理的に道筋立てて説明できないって
だけの話だと思うのだ。

昨日の口論相手の口から迸り出た
言葉は俺のアタマの中では論理的
整合性がつかなかったのだけど、
多分、俺の物言いのどこかが怒りを
掻き立て、結果として口論相手を
「小さく」感じさせたのだろう。

それは俺の非かも知れないし、
相手の心理的トラウマによるもの
かも知れない。俺はその根本的な
原因を知りたかっただけなのだが
腹を立てた人間にそう説明すると
納得どころか、さらに腹を立てる。

そして俺は「意味がわからない」と
問いつめては、輪をかけて相手の
感情を逆撫でする。しかもそんな
時に限って俺のアタマはフル回転
し始める。なんでなんだろ?

思うに、もしやこの手の口論は
俺にとっては自分自身を思ってた
よりも「大きく」感じさせてくれる
「喜び」なのではないか?

いつもながら、口論の後も全く
自分が「小さく」感じられる
ような自己嫌悪に陥らない事も
俺のこの仮説を裏付けている。

 

俺って根っから底意地悪いと思う。
そしてだからこそ確信している。
やっぱり「感情とは論理的」なのだ。


神に「マスタープラン」は無い [Archives]

IQみたいな個々の人間の能力の違いを
「遺伝」だと説明すると厄介な事になる。
倫理がからんで「政治問題」になるからだ。

思うに「優性遺伝」とか「劣性遺伝」と言った
専門用語が恐怖を掻き立てるのだろう。

血液型で説明すると「優性遺伝」ってのは
「A型」「B型」みたいに2つの染色体の
どちらかにその因子があれば自動的に
子供に受け継がれる性質。
「劣性遺伝」ってのは「O型」みたいに
両方の染色体に因子がなければ、子供
には受け継がれない性質のことだ。

要するに「どっちの性質が遺伝しやすいか?」
ってだけの話で「性質の優劣」じゃない。
なのに意味もわからず、言葉ヅラで短絡的に
他人の欠点を「劣性遺伝だ!」とか口走る
ヤツがいる。それがバカだっつーの。

さらにそれが高じると「偏見」になって
「日本人は中国人や韓国人よりも
 遺伝子的に優れている」とか意味不明の
戯れ言までほざくからタチが悪い。

そーゆーバカのおかげで科学の世界でも
「人間を考えるのに遺伝を持ち出すのは
 かつてのナチスの『優生論』みたいな
 人種や性別による差別的偏見に繋がる
 からやめましょう」みたいな風潮が強い。

犯罪衝動や暴力性について議論する時、
客観的事実なのに「黒人の犯罪率は高い」
なんて言ったら大問題になる。
だから社会問題の原因は「遺伝」より「環境」
って事になって「遺伝」とは関係のない原因を
無理矢理こじつけて説明したりする。

一方で聖書の記述を絶対的に正しいと考える
キリスト教原理主義者も遺伝の法則に裏打ち
されている「進化論」を認めない。
聖書に「この世は神様が七日間で作った」って
書いてあるからだ。

一般の人々が無意識に抱く「遺伝の不気味さ」
を都合良く利用して、ヤツらは凝り固まった教義
をゴリ押しする。そして現代科学を否定する。

「だいたい人間の脳や目みたいな複雑な器官が
 なぜできたというのですか?単純な進化論など
 で説明できるハズがありません」
「だとすると、やはり生きとし生けるもの全ては
 全知全能の神が作ったのです」みたいな論理。

では、アタマの悪い「良識派」や宗教関係者は
どーしてこの手の誤解が改められないのだろう?
ちょっと考えてみたら、こんな考えが浮かんだ。

多分それは、人間が何か精密な機械を作る時
まず設計図から作るコトが原因だと思うのだ。
神様もきっと、頭の中に完璧な設計図、つまり
「マスタープラン」を思い描いて生物を作った
ハズだと信じたがるからではないだろうか?

いきなり結論から言わせてもらうと
神様は「マスタープラン」などお持ちでない。
それをデジタルに説明してくれるのがこの本。

    

イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスの
『遺伝子の川』を読みやがれ!
(Richard Dawkins"River Out Of Eden")

ドーキンスは、人間(そして全ての生物)を
「“利己的な遺伝子”が後世に子孫を残そうと
 自己複製を繰り返し、増殖した結果の産物」
だと説明する。

“利己的な遺伝子”と言うと、遺伝子自体が
意志を持って増殖していく「パラサイトイブ」
みたいな間違ったイメージを抱いちまうバカ
が多いのだが、これも「神様が思い描いた
設計図通りに生き物を作った」的発想から
来る誤解だ。

何の事はない。ドーキンスは「進化にゴール
なんて全くない!デタラメと偶然の繰り返し
の結果として、生物は生まれたのだ!」って
口が酸っぱくなるほど言い続けてる学者だ。

彼のいう“利己的”ってのは「遺伝子が自分
のコピーを作って後世に子孫を残していこう
とする事が生物界では最優先課題なのだ」
って意味。言い換えると…

「遺伝子は非情だから子孫を残すの不必要
 なアイテムは全く進化させません」ってコト。

例えば、死ぬ時イタイのや苦しいのはイヤ。
でも彼の理論だと人間がいくら進化しても
遺伝子がこの痛みを無くす可能性はゼロだ。

だって遺伝子は個体に子供を作らせて自分
の「コピー」さえ後世に残せばそれでOK!
子供を産んだ後の個体がカマキリみたいに
カミさんに食われようが、八つ裂きにされて
殺されようが、遺伝子は知ったこっちゃない
…ってコトなのだ。

つまり進化は人間が幸せに生きる為に人体
をデザインしてくれてるワケじゃない。
遺伝子が未来に残るのに都合のいい方向
しか生物は進化しないのだ。

しかもドーキンスはこの生物の進化という
「自己複製のメカニズム」を、たった2つの
法則だけで笑っちゃうほど鮮やかに説明する。
「突然変異」と「自然淘汰」だ。

「突然変異」ってのは遺伝子が自分のコピー
を作る時、誤字脱字を起こすことだ。
間違い自体はデタラメだから、殆どが失敗。
失敗した遺伝子を受け継いたら個体が死ぬ
可能性は高くなる。

ただし!ごくまれに環境によっては生き残る
のに都合がいい「間違い」が起こる。
そうなると「間違い」が「正解」になる。

それを何千何万もの生物が数万年数億年
かけて繰り返すと「偶然起こった間違いが
都合よく転び続けた個体」だけが生き残る。
これが「自然淘汰」だ。

「デタラメと偶然だけでそんな事起きるかよ!」
と疑問を抱くムキもあるだろうが、動物学者の
コンラート・ローレンツ(だったと思う)は
進化の偶然とデタラメぶりをこう説明してる。

通常、魚の尾ビレは「垂直」なのに、なぜ
クジラやイルカの尾ビレは「水平」なのか?
コレが偶然とデタラメの根拠だというのだ。

魚類は背骨を「左右」に揺らす事で水中を進む。
中には突然変異で体の側部に妙な突起ができ、
泳ぎにくくて死ぬ個体なんかもいただろうけど、
陸に近かったりすると「奇形」だったはずの突起
がぬかるみから這い出るのに役に立ったりする。
もし突起のカタチが動くのに都合がよかったら
その個体はより多くの遺伝子を後世に残す。

こうして数億年もかけて突然変異を繰り返し、
進化した結果が、足を持つ両生類や爬虫類。

ところが、陸に上がってみるとまた事情が違う。
背骨を「左右」に動かす歩き方は進みが遅い。
自分よりも動きが速い動物に食われたりする。

だから背骨を「左右」より「上下」に揺らして
地面を蹴って飛び跳ねるように速く走れる
ように突然変異した個体が子孫を増やす。

こうしてまた数億年かけ、背骨を「左右」より
「上下」に曲げやすい哺乳類が登場した。
それなのに、ここから先がデタラメだ。

陸を速く歩ける足を持ってたのに、また海に
戻ったヤツがいる。それがクジラやイルカだ。
呼吸器官は「エラ」から「肺」に変わっていて
呼吸する為には、一旦海面に浮上しなきゃ
ならねえ。背骨の構造も変わっちまってて、
昔のように左右には動かしづらいのに…
だからクジラの尾ビレは「水平」なのだ。

もっともクジラがバカだったワケではない。
多分、陸上より水中に獲物が沢山いたとか
それなりの事情があったのだろう。

「マスタープラン」なんかありゃしねえし、
海から陸に上がってまた海へ、みたいな
単なるデタラメの連続なのに、結果として
①突然変異が環境にハマッて
②数万年、数億年と時間さえかければ
環境にマッチして生き残るヤツもいる。

複雑な生命の機能や進化のプロセスも
全て説明できる。この論理的でクールな
エレガントさが進化論や遺伝学の魅力だ。

なのにバカは「遺伝」って言葉にことさら
過剰に反応する。
「原因が遺伝だなんて言ったら、例えば
 犯罪者が人を殺すのも遺伝のせいだと
 なってしまうかもしれない」とか
「結局、遺伝だったら矯正のしようもない
 じゃないですか」みたいな。

大多数の人間がこのエレガントな理論の
根幹を理解してないコトにあぐらを掻いて
極論を持ち出すのだ。

だからドーキンスは、何度も口を酸っぱく
して説明を繰り返すのだけど、それでも
なかなか誤解は解けない。
論理的に遺伝の法則性を話してるのに
善悪の倫理的判断とかを持ち出すから
話がブレてこんがらがってしまうのだ。

実はこの状況は俺が『ジェネジャン!!』で
学歴社会を肯定すると、学歴不要派ども
の反感を買う構図とよく似ている。

「日本は学歴社会じゃない」って主張は
いつ聞いても根拠が乏しくて感情的だ。
俺がいつも、あれだけ口を酸っぱくして
説明してるのに、なぜなんだろ?

そう考えてふと思ったのだが、
もしかすると実はこの手の学歴不要派
も無意識に「遺伝の恐怖」に怯えてる
のではないだろうか?

ハッキリ言うと学歴不要派は低学歴だ。
「なぜ自分には学歴がないのか?」と
誰もが一度は自問した事があるだろう。

その時、自分より勉強の得意な人間が
間近にいると多分脳裏をよぎるだろう
“最も説明の簡単な理由”がある。
でも、それを言うのが怖いのだ。

「生まれつき頭が悪い」って理由だ。
だから「平等」って言葉をやたら連発し
能力の優劣で人を判断するのは決して
やってはいけないと必死に主張する。
言ってる事が支離滅裂だったりしても
気づかない。それは「信仰」だから。

平等ってのは、権利について認められる
モノであって能力を平等に扱えってのは
無理があり過ぎる。それに元々遺伝子は
「誰もが平等な能力を持つ」ようには、
人間をデザインしていない。

『強者の論理』を主張したいんじゃない。
「知能」とか、遺伝的要因の一要素だけ
取り出して考えるからおかしくなるのだ。

遺伝子の突然変異がもたらす能力差は
トランプで個々のプレイヤーに配られる
持ち札の違いに過ぎない。
そのゲームで全ての持ち札をどう使うか
が勝敗の決め手になる。

もし明日、全面核戦争が起きて世界が
『マッドマックス』みたくなったとすれば、
腰痛と糖尿持ちの「ペトロ族」はさっさと
死に絶え、バイクを乗り回し獲物を狩る
「ウカジ族」は繁栄を極めているだろう。
将来、さらに文明が発達すれば、人間
の論理的思考能力が全く必要なくなる
という可能性もないとは言えない。
環境が違えば結果も違う。それだけだ。

さらにドーキンスはこうも言っている。
「すべての生物がすべての遺伝子を
(中略)子孫を残した祖先から受け
 ついでいる以上、あらゆる生物は成功
 する遺伝子を持つ傾向がある」

「マスタープラン」なんかありゃしねえ
のに偶然とデタラメだけの生存競争を
勝ち抜いてきた人間って、実は強運だ。

しかもそれは種族としてだけじゃない。
人類誰もが、ものスゴい強運の持ち主
であり、結果的に見るとあらゆる人間が
生存競争を勝ち抜いてきたという意味
で「確率的には平等」ってコトなのだ。

だからいいかげん「個人の能力の違い
を遺伝で説明するのはやめましょう」
みたいな風潮自体、やめた方がいいと
思うのだ。結局、違いを踏まえた上で
問題を考えるコトこそが真の解決法
なのだから。

注記

無論だからと言って、先天性の障害者
のように遺伝子的に“突然変異による
困難”を抱えた方々を平気で見捨てて
いいというのではない。

弱者を保護するのは本来、社会全体が
行うべき「政治的問題」であり、それは
実行しながら「遺伝性を危険視する」
偏見も打破しなきゃならんってコトだ。

そんなの「言わずもがな」のコトなのに
誤解をされない為にとわざわざこんな
政治的配慮までしなきゃならないから
ただでさえ長い文章が余計長くなる。
これも無意味な偏見がまかり通ってる
証明だ。言いたい事も迂闊に言えねー
から、メンドクセエったらありゃしねえ。


NHK受信料を払わない裏ワザ [Archives]

おなじみ日本PTA全国協議会が毎年実施している
「テレビ番組に関するアンケート」の結果が公表された。

小学5年生と中学2年生の保護者約4800人を対象にした
このアンケートでは「子どもに見せたくない番組」として
『ロンドンハーツ』『水10!』『クレヨンしんちゃん』
『めちゃ×2イケてるッ!』などがやり玉に挙げられている。

毎度の事だけど、この「日本PTA全国協議会」って組織は
アタマが悪いから、このアンケートがお笑い番組の「勲章」
であり、宣伝材料にしかなってないって事実に全く気づいて
ないらしい。

でも、輪をかけてアタマが悪いと思ってしまうのがコレ。
「子どもに見せたい番組」だ。
今年も1位は2位の『どうぶつ奇想天外!』や3位の『3年B組
金八先生』を抑えて、断トツの支持率だったという。

    

NHKの看板番組『プロジェクトX』である。
確かに、とってもいい番組だと思う。
通常に言われてるのとは全く別の意味で。

何しろこの番組、『受信料』を徴収しにやってきた
NHKの回し者を撃退するのに効果テキメンなのだ。

例の不祥事以来、NHKの受信料支払いを拒否する世帯は
激増してるけど、それ以前から俺は受信料を払ってない。
払うだけの稼ぎは充分あるけど、ポリシーとして払わない。

ここ数年は理由としてこの『プロジェクトX』を挙げている。
「なんで金払って『プロジェクトX』みてえな
 企業のCMをわざわざ見なきゃならねーんだよ?」
こう説明すると徴収人がさっさと引き下がるからだ。

PTAのアンケートに答えるようなバカな親どもは
「昔の日本人はエラかった」とか感動にナミダして
そこにとんでもない矛盾がある事に全く気づいてない。

NHKは特定のスポンサーの支援を受けない「公共放送」だと
自らを名乗り、「不偏不党の立場」にある事を前提に国民から
受信料を徴収している。

でも『プロジェクトX』の本質は「企業のプロモーション番組」だ。
「番組」というよりは「企業CM」と呼んだ方が正しい。
公共放送であるはずのNHKが特定の企業を紹介し、その企業
の過去の業績を露骨に賛美する「CM」を流してる。

紹介される企業も、その絶大な宣伝効果を知っているからこそ
取材に全面的に協力する。以前ホンダを取り上げた時なんか、
フジテレビが巨額の放映料を払ってるから他局には絶対貸し
出さないF1の映像が流れてた。裏でホンダが動いたからだ。

ここまで露骨に一企業をイメージアップさせる「CM」を作る為に
国民は「公共放送」に受信料を払わなきゃいけないのか?
中島みゆきの曲や田口トモロヲの淡々としたナレーションがいい
とか感動してるバヤイじゃない。
「そんな金払えるか!」ってのが道理だ。

しかも昨年、NHKは『プロジェクトX』のイベントを開催した際
過去に取り上げた企業から「協賛金」を募っていた。
中には3千万円払った企業もあった事が判明している。
露骨な金儲けだし、民放でCMを流したのと全く同じ構造だ。
「公共放送」として何から何までデタラメだ。

だから読者にも、もしNHKが受信料をかすめ取りにやってきたら
『プロジェクトX』を持ち出して「企業のCMの制作費なんて絶対
払いたくありません」と主張することをオススメする。

そもそも『プロジェクトX』を「子供に見せたい」とかほざいてる
バカな親がなんでこんなに多いんだろうか?

これはテレビが「公共性」を持っているという誤解から来ている。
「テレビは国民のモノ。国民に有益なモノを提供するメディア」
という、とんでもない幻想だ。

確かに災害が起きた時とかは、テレビを通して得た情報が
重要な役割を果たすようにも見える。これを根拠として…
①僻地や離島に住む日本人であっても必ずテレビが見られる
 ようにしなければならない。
②その為には「公共放送」が日本全国を網羅する必要がある。
③だから「公共放送」NHKに国民全員に受信料を払いなさい。
…みたいな話になっている。

でも、この「論理」ってホントに正しいのだろうか?
例えば阪神大震災級の地震が起きたとする。
その時、一般家庭の多くは停電してテレビなんか映らない。
携帯テレビはそれほど普及してないからラジオやネットの方が
よっぽど役に立つはずだ。

そもそも非常時に必要な情報は「音声」や「文字」で得られる
のであって、「映像」は必要ない。
テレビが空気のようにありふれた存在になっているが為に
大多数の人間はテレビの本質というものが見えなくなっている。

まずテレビは人間の生活に必要不可欠なモノではない。
テレビが殆ど普及してない発展途上国だって沢山ある。
人類の歴史上、テレビが無くて困った事なんか一度もない。

世界的に見ればテレビとは「先進国の贅沢な娯楽品」なのだ。
大地震の時、都市の壊滅ぶりを見たがるのは「娯楽」だ。
もう少し簡単に言い換えてみようか?

「サダム・フセインが捕まった」ってニュースはラジオやネット、
新聞などでもすぐに伝えられた。世界情勢の重大なトピック
ではあるけど、捕まった事さえわかれば情報的には充分だ。
でも「捕まったフセインの哀れな姿が見てえ〜!」ってなると
人はテレビをつける。
これは情報の「公共性」という一線を越えた「娯楽」になる。

要するにテレビは「欲望」を満たす「娯楽メディア」なのだ。
必要不可欠でないならテレビに「公共放送」などいらないのは
明らかだ。そもそもNHKって国に都合の悪い事は報じない
「政府のお抱え機関」だし。
よって俺はNHKの受信料は払わない。Q.E.D.

本来テレビとは、街頭で配られる「サラ金のティッシュ」だ。
企業が自社製品を宣伝する為に金を出してタダで垂れ流す。
ティッシュは「鼻を噛める」からもらった人間に喜ばれる。
テレビは「CMのついでにやってる番組が面白い」から喜ばれる。
違いはそれだけだ。

但しテレビは多くの人間の目につくように、中味を刺激的にできる。
俺はそんなムダで下世話なテレビが好きだ。
でもそれを過激過ぎると言って、テレビを非難するのは間違いだ。
元々タダで垂れ流してるのだから、見たくなければ消せばいい。

「良識ある親」どもで構成されてるハズの日本PTA全国協議会
はそんな単純な事実さえ気づかない。
ホントに「テレビが子供に悪い」と考えてるなら、親自身が子供の
テレビの視聴時間を管理すべきなのに、その責任を棚上げして
テレビをスケープゴートにする。
バラエティーが有害なら下世話で覗き見趣味のワイドショーだって
有害のハズだが、ワイドショーには全く文句を言わない。
支持母体である下世話な主婦どもの反感を買いたくないからだ。

ワイドショーの出演者は似たような殺人事件や幼児誘拐事件が
何となく起きているのに、毎度毎度そんなニュースに対して
「一体なぜこんな恐ろしい事が…」と同じコメントを繰り返す。
「PTAの良識派」どもの思考停止具合はそれとよく似ている。
「子供に見せたくない番組」とかギャーギャーほざいてる前に
「親をバカにするワイドショー」を無くす方がよっぽど子供の為に
なると思うのだが?

結局、テメエらがテレビ漬けになって思考停止しちまってるのだ。
そしてバカだから、せっせとNHKに受信料を払い続ける。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。